<風船の徘徊9>  解りやすい詩・詩人茨木のり子


<私の好きな詩人>
私は現代詩なら(ここでも現在の日本語で書かれた詩の意味)、茨木のり子、
長田弘、谷川俊太郎、金子光晴、伊藤静雄、山村暮鳥なんかが好きだ。
理由は単純、私が詩に求めるものがそこにあるからだが、
あるいは、私の感性に合うからだ、と言い直してもよい。

私の感性に合う詩が、(「世の中の人々にとって」ではなく)
「私にとって」一番いい詩である。

「音楽、美術、詩の世界」では、その作品の良し悪しの評価は、
人それぞれであって、私にとっては、私の評価が最終的なものである。
威張っているわけではない。
こればっかりは自己中心的でよい。 仕方がないことだ。

もちろん、私が「美術・音楽・文芸」の評論を読まない(他人の意見を聴かない)
という意味では毛頭ない。

私も評論を読むのは好きだ。

それで、私の判断の物差しの精度を上げることになるし、
今まで気づかなかった新しい視点を教えられ、
新たな鑑賞のおもしろさを教えられることがあるからだ。

他人の評価基準に、私の評価基準の「代役」を務めさせるためではない。


<私の遊び>
私にとって作品の鑑賞とは、「自由な遊び」である。

たとえば、美術展に行く。
「どの作品が私を魅了するのか? 私の心を圧倒するのか?」
そんな出会いを求めて館内を歩く。

たとえば、新聞の俳壇・歌壇をみる。
私が「特選」としたい作品はどれか?
撰者になったつもりで、私の心を攫む作品と出逢えるか探してみる。

たとえば、詩集をひもどく。そのなかで、
「詩人の心と私の心」が共鳴し、音楽になって響き合う詩に出合うか。

それが私の遊びの焦点だ。

そんな特別の出会いを感じない作品の前は、足早に素通りする。
心動かす出会いがあれば、しばらくその前に立つ。
しばらく虚心に作品と対峙する。

それからおのずと湧き出る想像や思考を心のなかで反芻してみる。

私が今いる息苦しい現在の社会環境から、
心がしばし時空を超える。
こころを解き放して「自由」に遊ばせる「遊び」だ。


<茨木のり子> ――解りやすい詩を書く詩人の代表格――
人は自分の周囲を理解したいと思う。と同時に、
周囲から理解されたいと願う。

人間の心は相互にアクセスし合うことを希求する。

芸術家は作品の理解者を求め、
鑑賞者は作品を通じ芸術家の心へアクセスを求める。

どんなに難解な詩を書く詩人でも、理解されたいと思って詩を書く。
その点でやさしい言葉で書く「詩のスタイル」を持ち合わせている詩人は幸せだ。
茨木のり子(1926−2006)はそんな幸せな詩人の代表格だ。

彼女の詩にこんなのがある。
詩人の自宅に仕事に来ていた左官屋である、
いかにも今どきの「アンちゃん風」の若者が言った言葉が
詩に引用される。

> 足場伝いにやってきた彼    
 > 窓ごしにひょいと私の机を覗き 
 >「奥さんの詩は俺にもわかるよ」 
 > うれしいことを言い給うかな  

(詩「二人の左官屋」から一節のみ引用)

こんな詩が作れるのは、平明な言葉で詩を読み手に届けてきた詩人のみが
享有しうる特別の恵みというべきだろう。
詩人仲間からすれば「詩人冥利に尽きる」と思われるかもしれない。
実際に、詩人の大岡信は茨木のり子との対談で
「ああいうところは、ボクはほんとうに羨ましいのね」と述べている。

表現の難解な詩で優れた詩はたくさんある。
難易、どちらの詩がいいという(優劣の)問題ではない。
解りやすい詩は、面白くないという「大詩人」もいる。
ただ、「難解な詩」が多くの読者・ファンを持ちにくい、のは事実だ。

前記の対談で、茨木さんが、
現代詩人には、理解のしやすさを含む「詩質」の点で2種類の系統がある、
として、A「万葉型」とB「古今・新古今型」に分けているのは面白い。

ちなみに、茨木さんはA「万葉型」、大岡さんはB「古今・新古今型」だ。

Aの詩は主として「知的に」、読む人のこころに響いて来る。
Bの詩は主として「感性的に」、読む人のこころに響いて来る。

知的というのは「論理性」を含むので論理的に理解しやすいが、
感性的・感覚的な詩は読む側にも鋭い感性を要求し、
読者が感性の度を上げないと「詩と共鳴し合う」領域に達しない。
だから、おのずとBが難解な詩になりがちだ。

Aの詩が陥りがちな短所は「散文的になってしまう」(詩情を失くす)
Bの詩が陥りがちな短所は「独りよがりになってしまう」(詩情さえ通じない)

ということだろう。


<茨木のり子> ――戦後現代詩の長女――
詩人新川和江(1929―)さんは、茨木のり子の位置付け(=ポジショニング)
について、次のように語っている。 
「多くの女性詩人にさきがけて、戦後いち早く詩活動をはじめた
茨木さんには、現代詩の長女といった品格と重みがある」と。

茨木のり子は詩集の出版数も多く、話題となる面白い詩を多数作ってきた。
中でも多くの人から愛され評価された代表作の一つに

「わたしが一番きれいだったとき」

という題の詩がある。

詩は8連から成っているが、第1連から7連まで各連の「冒頭」に
題名でもある「わたしが一番きれいだったとき」の句が来て、
この句が繰り返され、
詩全体に、何回も木霊する。

リフレインする
「わたしが一番きれいだったとき」という詩句の次に

「まわりの人達が沢山死んだ」(第2連)
「だれもやさしい贈り物を捧げてくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残して発って行った」(第3連)
「わたしの頭はからっぽで」 (第4連)
「わたしの国は戦争で負けた」(第5連)
「ラジオからジャズが溢れた」(第6連)
「わたしはとてもふしあわせ」(第7連)

の詩句が続く。「美しい詩」だ。
朗読しやすいリズミカルな詩だが、内容は重い。
茨木さんは敗戦の時、19才か20才で、薬学部の学生だった。
(この詩は敗戦から約10年後の作品)

戦争は人を人間扱いしない。

男性の青春は炸裂する砲弾の戦火に焼べられ、
女性の青春は銃後の護りの防壁に塗り込められて窒息し、
空襲の日々は敵弾の火の雨が降り注ぐなか壕のなかで息を潜める、
やっと生き残った青春が焼け跡に虚脱状態の日本に直面する。

この詩は敗戦前後の「残酷と悲惨」の奈落のうちに「青春」の日々を奪われた、
詩人自身(と同世代)の「無念」がうたわれている。

だが不思議に、この詩は暗くない。
端的に言って驚くほどに明るい。
「戦時」をうたった戦後詩の中では際立って明るい。
そこがこの詩の魅力だ。

なかんずく、
あの最も辛く暗く苦しかった敗戦の年を挟むその「前後2年くらいの時期」を
茨木さんが「わたしが一番きれいだったとき」という言葉で表現している、
この詩人の感性に私は驚くのだ。

かつて与謝野晶子が、日露戦争(1904〜05)の時期に

「君死にたまふことなかれ」と、戦場の「弟」へ呼びかける
「言葉」を「題名」とし、かつ5連からなる詩のすべての「連」に
「この言葉」をリフレインさせて切々と歌った、

「君死にたまふ(給う)ことなかれ」

を詩の「形式」と「テーマ」の相同性ゆえに、
私は今思い出す。 典型的な「反戦詩」とは異なる「嫌戦ゆえの反戦の詩」。

抒情詩人として既に著名な与謝野晶子の名詩にさえも、
当時言論界で高名だった大槻桂月が「乱臣なり、賊子なり」と
激しい非難の声を上げ雑誌に掲載して晶子を攻撃したことは、
記憶にとどめておきたい。

「戦争の狂気」は、やすやすと「知識人」を含む国民全体を覆い尽くす、
という事実を忘れないために。

晶子の詩も解りやすい詩だった。  
<2018.11.20記>

 

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