<風船の徘徊8>  好き嫌い・「河豚と現代詩」


1. 何ぞ何ぞ  

今回は(俳句・和歌などを含まない詩)「現代詩」に関し
少々述べてみたい。

誰もが高校生の国語の時間に習った「現在の日本語」で書かれた詩のことだ。

なぜ、私たちの多くは、
詩を毛嫌いするのか、
詩に親しめないのか、
好んで詩集を繙くことがないのか? 
ということが気になっている。その問題を述べてみたい。

一生のうちに小説やエッセイなら何冊も何冊も買うのに、
詩集は1冊も買わない人が少なくない。

ちょっとヘンだぞ、と私は思う。

本題に入っていく前の「枕」としてまず「なぞなぞ」を掲げる。
(ちなみに、この章の表題「何ぞ何ぞ」は「なぞなぞ」の語源です。)

現代詩について書くといえば、
読み手の側が、端から拒絶反応を起こすのではないか、
困ったことに、現代詩は歓迎されざるテーマだ、
という懸念が頭をかすめる。
(以下、単に「詩」と記す場合も現代詩の意。)

一般的に言って「詩」が好きな人は多くない、という思いがまず先立つ。
だから、できるだけソフトに話しを始めたい。

そういう思いで導入として「なぞなぞ」を作ってみた。

「AとかけてBと解く。」「その心はC」という形のなぞなぞだ。
「心」とは「謎ときの根拠・わけ」を指す。
辞典にも出ている、れっきとした日本語だ。

ここでは、Aは「詩」とBは「河豚」と定める。
読まれる方も、Cの「心」の部分を考えてみて欲しい。
さて、
(A)「詩」とかけて何と解く?
(B)「河豚」と解く。
(C)その心は?

「その心は、ふぐも 『冬の風物詩 』」     (1)
「その心は、ふぐにも「し」(→死)がある」  (2)
「その心は、詩も、ふぐも「かいどく」が必要だ」(3)

以上の3つの「心」を私は考えた。
説明するまでもなく、
(2)は「死」と「詩」を掛けた掛詞。
(3)は 詩の「解読」とふぐの「解毒」を掛けたもの。
  (解毒の読みは「げどく」が一般だが「かいどく」の読みもある。)
1は、ひねりがなく平板。
2と3は発想の元(→ふぐの猛毒)が同じだが、3が「皮肉があって意味深長」。

というわけで以下、3の「心」を起点にして、
詩を毛嫌いする「偏見の起源」について、
私なりの「解読」「解毒」作業にとりかかることにする。


2.ふぐは鉄砲・美味を求めて命を賭ける

日本で、ふぐは 別名「鉄砲」。
ふぐの毒に当たれば人は死ぬ。
鉄砲鍋、てっちり、てっさ、
のように「ふぐ料理」には「鉄砲」や「鉄」の語が使われる。
誰が命名したか知らないが、全国に十分通じるほどに、世間受けしたふぐの
「ニックネーム」だ。
恐怖の「鉄砲」が、河豚の愛称(俗称)とは、「よくも言ったり」と感心する。

一般にふぐの毒(「テトロドトキシン」というらしい)は、青酸カリの13倍の
猛毒といわれる。
当たれば1日以内に死ぬ。
調理(解毒)が「免許のある専門家」に託されるのは当然だろう。

調理では、毒性のある部分が完全に切り除かれ、
食する部分はきれいに水洗され、
時間をかけて流水にさらされる。

昔から、「ふぐ1匹に 水1石」
と言われる程に多量の水を費消する。
(1石は180リットル、ペットボトル90本)

(注)水に晒す毒抜きの技術は、既に縄文人の生活の知恵に含まれていた。
採取して来た「木の実」や「植物の根」を「川の流水」に長時間晒して、
毒抜き・<渋み・えぐみ・苦味>の灰汁抜きをする作業は
狩猟採集時代に日常的に行われていたという。
その必要からも、縄文人は「川の近くの場所」に住んだといわれる。

(注)日本の「貝塚」から、ふぐの骨も出土する。
その頃から食用とされていたことが分かる。

(注)中国でも、ふぐは古くから食されていた。
ふぐの中国名は「河豚」(かとん)。その「河」の字は、
海からさかのぼるふぐが「長江」でよく獲れたことに由来するという。
日本で使われる漢字としては「鰒」と「河豚」がある。
河豚の方が普通に用いられる。

ふぐの毒は「無色、無味、無臭」だから、
注意して食べても毒の有無は分からない。
ふぐ料理の安全性は、免許のある料理人の「腕と誠実」に頼る他ない。
ふぐの食習慣も「人間相互の信頼・技術への信頼・システムの信頼」
の上に成り立っている。

ふぐ料理はリスクがあるのに、人気はおとろえることがない。
命を賭けて食べるので、いっそう「妙味」が増すかのようだ。

日本にはふぐについて、
『 河豚食う無分別、 河豚食わぬ無分別 』

なんて言う、洒落っ気の効いた面白い言葉がある。
ふぐは食う決断にも、食わぬ決断にも「分別」と「無分別」が伴う。
人生を楽しむには「リスクの思案」はつきものだ。
ふぐ好きなら、ぜひ覚えておきたい名文句だ。

少々横道にもそれたが、とにかく以上で、
ふぐを賞味するには、「解毒(作業)」が必要なことは十分確認できたと思う。


3. 現代詩の「毒気」の由来

現代詩も毒の「気」があるらしい。
だから、多くの人が詩を敬遠するのだろう。
一風変わった人たちだけが詩を愛好する ?

日本では、詩人は多いが、詩集はあまり売れない。
日本は絶対に「詩集がベストセラーになったりしない」不思議の国だ。

ふぐは毒があってもみんなが喜んで賞味するのに、
少々毒のある詩の方は「少数者」しか味読しようとしない!
現代詩の毒はふぐの毒のように命を取ることはない。
せいぜい頭痛くらいのものだろう。

では現代詩にはどんな種類の毒があるのか ?
現代詩の毒は現代詩の「体内」にあるのではなく、周囲に立ち込める毒気だ。

毒気が現代詩にまとわりついている。

毒気があるなら毒気を払いのけたい。
風通しを良くしたい。
その毒気の実態は何か?

過去を振り返る。
毒気が現代詩にまとわりついている原因は、
私たちの受けた「学校教育」に起源がある。
ふり返ればおのずと分かるというものだ。

以下、無作法の誹りを覚悟の上で、
毒舌をまじえて「問題の所在」を追及し「隠れた原因」をあばいてみたい。
(本当にできるのかな? )


4.解読で1丁あがりの「困った授業」の問題性

現代詩は解りにくい。解らないから、
「面白くない、興味がない、親しめない、嫌いだ」と続く。

要するに「難解だから詩は嫌いだ」というのが世間の通り相場だ。

確かに「難解な詩」も多い。
「しかし」と私は思うのだ。

(1) 「解り易いいい詩」も沢山あるではないか。
(2) 何事もやり始めは難しく、その後面白さがやって来る。
(3) 意味が解らなくても、人が面白がってやっていることは沢山ある。

実は、詩を毛嫌いする真の原因は「詩の難解さ」ではない、と私は考える。
主因は「詩の授業」の貧困にある、と考える。

その「貧困な内容」を自ら乗り越え、その向こう側で
詩に光を見出した少数の人は詩の愛好者となって生きる。

その「貧困な内容」にうんざりしてしまって、
詩を無用の長物とみた多数の人は生涯詩と無縁に生きる。

それが詩との出会いの時にある「最初にして最後の分れ道」だ。

「授業の貧困」も「人生の岐路」も、
生徒が授業を受けている時に気づくものでは決してない。

成長して、ふり返ったときに痛感することだ。

「あんな授業では、みんな詩は好きにならないよなあ」と私は今思う。
入門案内役の不適格性が問題なのだ。

もう少し詳しく述べよう。

一般に、
(1)先生は、自分が「かつて教えられたように」生徒に教える。
(2)先生と生徒は、「権威と服従」の関係にある。

教育方法は、昔ながらのものを踏襲して先生は怪しまない。

先生は自分が不勉強でよく解らない場合でも、
分かったふりをして教える。
(でないと、「教師の権威」に傷つくと思うからだ。)

そんな場合に授業を受ける生徒の側は
「じっと我慢の子」を演ずるほかないのだ。

先生の授業の質がどんなにひどくっても、生徒に「逃げ出す自由」はない。

授業は一時的に、生徒の自由を束縛する「幽閉の場」、
精神的苦痛に耐える「忍耐の場」となる。

次の例なら、多くの人が体験しているだろう。

小学校で
授業中いくつかの同じの漢字や熟語を、ノート1ページずつ書かされた
記憶はないだろうか?
(その間、先生はテストの採点かなにか他のことをしている。)
漢字を書く宿題が、何ページにも及んだことは ?

教師は、自分だってそんなことはイヤだろう。
したくないことだろう。
分かっていながら、イヤがる勉強の仕方を子どもに押し付ける。

しかし、この種の「強制」が主体の教育のやり方は
間違いなく子どもを「勉強嫌い」に追いやる。
勉強嫌いの子どもを「大量生産する方法」の典型なのだ。

一般に教育の「至高の目的」は
「学ぶことの好きな子」そして「出藍の誉れ」をたくさん作り出すことだ。
(生徒が先生と同じレベルに育ったとしても、社会や学問の進歩はない。)

だが、その目的は最重要視されて来なかったし、今もされてはいない。
詩の教育の場合も事情はまったく同じだ。

教師多くが(白状しないが)「現代詩はむずかしい」と思っていて、
実は扱いかねているのだ。
かつて国文科等で古文読解を教わったように
まるで「シュメールの楔形文字」か何かに対するようなイメージで、
詩を読むとは意味を「解読する」ことだと思っている。

だから、詩の授業は、教師が俄か勉強で
「詩を解読して見せる」発表の場にすぎなかった。
そして詩の授業は「難解な詩の意味」を解読すれば、それで終わりだったのだ。
それはまあ大学受験には役立つだろう。

小学校で漢字を矢鱈に書かせる先生たちも、
自分も昔学校でそうやって覚えさせられた方法を守る。
国文科で古文の読解を習っただけの「旧き教師」たちも大同小異。
それ一点張りの過去を踏襲する方法が悪循環している。

望ましいのは、まず教師自身が「詩が好き」であることだ。
自分自身「詩好き」でないものが、「詩好き」を他者に伝えることはできない。
何人もみずから持っていないものを、他人に与えることはできない。
詩の「面白さ」や詩から受ける「喜び」や「驚き」の心、
感性の部分を伝えることができないのだ。

簡単な論理だ。
「好き」が好きを生み、「嫌い」が嫌いを生む。
人の人への愛が、「愛」をひろげ、
人の人への不信が、世に「不信」を拡げる、
のと同じ理屈だ。
 
願わくは、「学ぶことが大好きな人」に小中学校の先生になってもらいたい、
と私は思う。
同様に高校では、詩が好きな先生に「詩の授業」を担当して貰いたい。

そうでなければ、こどもに学ぶことの「面白さ」を伝えることはできない。
解読だけでは、「詩の面白さ」がちっとも伝わらない。

世間の人々の詩への「毛嫌いの原因」は教育現場の授業中で作られたものだ、
というのが私の結論である。次にもうひとつの問題がある。


5. 難解な詩が並ぶ「困った教科書」の問題性

なんでも最初が肝心だ。ふぐ料理でも最初に美味しいものを食べると、
病みつきになって、生涯ふぐの季節が待ち遠しくなる。

逆に、最初不味ければ、一生ふぐ嫌いが続くだろう。

最初に受けた印象が一生を左右することは、何事であれありうることだ。

第2の批判は、教科書に「解読作業」の訓練用に
御誂え向きと言わんばかりの
「難解な詩」ばかり並べている、あるいは、
そういう詩を中心に選んでいる、
という点だ。

詩の教育のために、なぜ必要以上にむずかしい詩ばかりを、
教科書に「陳列する」必要があるのか?

解りやすくて、「すぐれた詩」はたくさんある。
高校教育といったって、所詮人生への入門のための基礎教育だ。
現代詩について、なぜもっと、やさしく、馴染みやすく、
親切な「手ほどき」・入門案内ができないのか。

まるで、
詩は「凡人には手の届かない」高級で難解な文学のジャンルだぞ、
と半ば脅しているようなものではないか。

詩を凡人の手の届かない高みに祭り上げて、
うかつに近寄るなといって、威張ってみせているようなものではないか。

教科書編纂の責を負うエリート学者・権威者たちの放つ
気高い学問の「香気」ではなく、
独りよがりの衒学的ないやな「臭気」と「毒気」が
選ばれた詩の周辺から立ち昇る。

「何事も最初が肝心なのだよ!」

かくて最初に、舌に合わない「難渋な詩」を試食することを強制され、
うんざりさせられた生徒たちの大半にとって、
詩は生涯近寄りがたい存在となる。

いままでに述べたことを一言でいえば、私たちの多くは
詩についての「授業と教科書」の中で、
おのずと詩に対する「疎外感、嫌悪感、恐怖感」を植え付けられ、
それ故、詩の「秘密の花園」に近寄ることを避けたい、
と思うようになったのだ。
あるいは自分は入る資格がないと、劣等感類似の感情を抱くようになったのだ。

ほんとうは、誰もが動物園・植物園・自然公園に入る気安さで、
気持ちの安らぎを求めて入ってよいのだ。

私の「毒舌」によって、
やや大袈裟な表現になってしまったが、
多少過激な表現の方が、趣旨が伝わりやすい筈だと、私は信じる。

何事であれ、
(精神的な)強制によって、「対象への愛」が生まれはしない。
教育の場の「強制」は、しばしば「善意の衣」を纏っている。
時には、その善意の衣を剥いで、その下に隠れている真実を見る必要がある、
と私は思っている。

では、「詩好き」の生徒・大人作りの方策は如何?
(1)具体的にどうすればよいのか?
(2)既に成人した大人はどうすればいいか?
(3)自分はともかく子育てに留意した方がいいことがあるか?

問題は果てしなく続くが、またの機会に触れることにして、
今回はこれで終わりとする。

以上は私の経験を基にしている。現在の教育はもっと改善されているだろう。
だが、今も詩の愛好家は増えていない。
その点に変わりがない。

<2018.11.11記>

 

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