<風船の徘徊 6>  「安室さんって反日なの?」・憲法に照らしてみる


1. 多様性の容認と日本国憲法

ネット上で現れた「安室って反日なの」という言葉に一瞬驚き、
馬鹿なことをいうなあと思ったが、
同時に改めて考えさせられることもあった。

戦後70年を超え憲法思想の基本を蔑ろにする社会的風潮が出てきているので、
日本国民は改めて日本国憲法の基本に立ち返って、もう一度
日本国憲法の価値を考え直さなければならない時期に来ていると思う。

問題の言葉は、安室奈美恵さんが沖縄県知事選において
「米軍基地・新設反対」候補の支持を表明したことに対して、
ネット上「反感」の意味を込めて
「安室は反日なの」という言葉を浴びせたというものだ。

私はネット上でその発言を間接的に報じられたものを読んで知ったのであって、
私が知るのはそれ以上でも以下でもないが、
さらに詳しい発言の経緯を知るほどの必要は感じない。
問題点はいたって明白だからだ。

安室さんの行為は日本国憲法下では、
いかなる意味においても「普通の行為」に過ぎず、
他人から非難の目・不審の目を向けられる理由はどこにもない。

たとえば、「普通の行為」ということに限れば、
「晩御飯準備のため買い物に行く」
「誰かが誰かに求愛し結婚する」
といった行為とまったく同じように、誰もが自由に選択してよい
「当たり前の行為」だ。

その当たり前の行為が、それぞれが憲法上の
「(政治的意見の)思想・表現の自由」「プライバシーの自由」「結婚の自由」
として保障されている。
(独裁国家なら、この「当たり前」が許されない。独裁国家とそこが違うのだ。)

独裁国家ではなく日本国憲法下に生きる者は、権利や自由について、
それが当たり前だ、ごく普通のことだ、という
「日常感覚」を身に着けていなければいけない。

言い換えれば、「憲法が国民の中に根付く」とは、
そういう感覚・「憲法感覚」が日常の感覚になることを意味する。

あたかも空気を吸って生きるように
自らが「憲法感覚」を日常感覚として生きていく、
そして社会全体がこの日常感覚を共有し尊重する、
というが大切なのだ。

日本は独裁国家ではない。

「政府の政策」(たとえば米軍基地推進政策)に反対を表明してもよいし、
反対する候補者を支持し、これに投票してもよいのだ。
それは基本的人権・基本的な自由に属することであり、
同時に民主主義の根幹に関わることだ。

もう一度繰り返してまとめておこう、

日本は
「人民の人民による人民のための政治」を求める「民主主義の国」であり、
「多様性という価値観」を基盤とする「人権を尊重する国」である。

だから、いかなる意味においても
安室さんが反日なんかでありえないのは明白なのだ。

特に留意したいのは「多様性の尊重という価値観」は、

――(1)一国内であれ、
――(2)国際社会であれ、
――(3)生物界であれ


現代最も必要な考え方だということである。
多様性尊重は21世紀を生きる人間の「良識」ともいうべき考えであり、
人類の共存の基本思想ともいうべき地位にある。

しかし、(分からず屋の)「世論」は時々この良識に反逆する。
政府が秘かに操作して「多様性」への「敵対」を煽って
世論を「誤」誘導することもある。
しかしその時、社会は必ず「不幸」に向かうのだ。

2.国内的分断と国際的分断   

他国の国民が
(1)「反日感情」を抱いているか? 
(2)「親日感情」を抱いているか? 

この問題についての私たちの関心について言えば、
私たちの日常の世界では、さしあたり海外旅行をした場合等に
気になるかも知れない。

海の向こうの人と話す場合に、対日感情如何を意識することがあるだろう。
訪れた国の住民が「親日本人」的な感情をも含みつつ、
私たちに親しく接してくれた場合に、その親日感情を含めて、
私たちはその旅にささやかな「幸せ」を感じることだろう。
逆に、他国の人が日本を訪れた場合も同じことだ。

小さな「直接的体験」であるが、いずれの国相互のことであれ、
国民の個人的レベルの基礎的な体験としてこの体験は大切である。

私はこの「小さな幸せ感」を重くみる。
なぜなら、それは異国の人間同士の相互信頼と連帯の
「スタート・ライン」となりうるからである。
国際的な親善関係の底辺では、個人のこのささやかな直接体験もまた
大いに役立っているのだ。

その場合、相互に「多様性を尊重」する志が乏しければ、
共感し合う雰囲気は生まれないし、強くもならない。

私たちは、国対国相互に多様性を認め合うべきだが、
その前提として、自国内においても多様性を大切にする「価値意識」を、
「その感覚」をしっかり身に着けておくべきである。

国内でその価値観と感覚が育っていなければ、国際的にも偏見が先立ち、
相手の立場やその存在すらをも認めないところに転落しかねないだろうと
考えられるからだ。

そうなれば、人類的規模で人間の心の中に悪魔が立ち上がり、
世界は内乱の時代に向かって「狂気の突入」を図るだろう。

米国における騒然たるトランプ現象を見よ!
世界一の先進国アメリカは「排外主義大統領」の選出で大きく躓き、
「国民的分断」と「国際的孤立」の拡大深化に苦悩している。
自由の女神像は、秋晴れの日でも涙で目を曇もらせ、
それでもなおアメリカを見守りつづけていることだろう。

一寸「横道」に逸れるが
私は2015年に(→当時78才。妻を亡くした悲しみ晴れやらぬ翌年6月に)
旅行社企画のバルト3国ツアーに乗っかって、
リトアニアの国を訪れたことがある。
例によって、杉原千畝(1900〜1986)が、
そこで難民ユダヤ人に亡命のためのビザを発給しつづけたとされる 
(1)旧日本領事館(現杉原記念館)、
(2)メトロポリスホテル、
(3)カウナス駅、
を訪れ観光した。
日本国政府がユダヤ人へのビザ発給を許容したわけではない。
「親ナチ」の日本国政府の意向に反し、一命を賭ける杉原によって
ユダヤ人へのビザ発給が続けられたのであった。
政府から帰国命令が出て、閉鎖された領事館退出を余儀なくされたが、
領事館閉鎖による退去の後もなお、杉原が帰国途上、
一時滞在した(2)の「ホテル」から、
リトアニアの地を去るべく列車に乗りこむ(3)の「駅頭」にまで、
「亡命のためのビザ」を求める多数のユダヤ人が杉原を追って詰めかけた。

彼らに対して帰国の列車がカウナス駅を離れる時まで、
杉原はなおもビザ発給を続けたという(→「6000人のビザ発給」)。

今も(2)(3)の場所にそれぞれ杉原を讃える
「メモ―リアル・プレート」が貼られている。

私はそんな「事実」を現地の旧領事館跡の現杉原記念館館長の
「案内と説明」で具に知った。 
館長は、午後にはアフリカの観光グループが同記念館に訪ねて来る予定だ
と話していた(→私たちは午前の訪問組だった)。

思えば、
杉原はリトアニア人を助けたのではない。
杉原はリトアニア人でもない。
にもかかわらず、リトアニア人は杉原を讃える。
リトアニア人はすごく「親日的」だという。
日本語学校もあり、人気があるという。
杉原記念館には世界各国から観光客の訪問が絶えないという。

ここにも多様性尊重の「価値観」「倫理感」が息づいている。

多様性を尊重する世界の創出は21世紀の人類的な課題だ。
現世界は「世界の表舞台」から締め出され、排除されている
「マイノリティ」が数では圧倒的多数を占める。
表舞台を占めるごく少数者が、自らを真の人間とみて
「マジョリティ」の名を僭称している。

ヘンな話と言えば、ヘンな話だ。

(なお、アジアの中での、反日・親日の感情は重い歴史的理由をもっている。
日本国政府は日本国民ともに過去と真剣に向き合い、
歴史的和解に向けて一層の外交努力を重ねなければならない。
ここでは別の問題としてとりあげない。)



3. 「非国民」というレッテル・分断社会への道

以上述べたことから推測がつくように、
私が「安室って反日なの」という言葉を取り上げたのは、
そこに「世論の影」をみたからだ。
でなければ、若い女の子は「流行語の習得」に忙しく、
「本来の日本語」のボキャ貧が招いた発言だろうと
軽く見過ごすのも容易だった。

しかし、この言葉がネット上で注目されたのも、
それを世論の一部と看たからだろう。

私のこの稿も、(女の子の無知なんかではなく)世論の理不尽の方に向けられる。

私の違和感は、
第1は、「反日」の語は
「外国から日本」に向けられる感情表現に使われる言葉なのに、
「日本人同士」の意見の対立を表現するのに使われたという事実にあり、

第2に、日本人同士の(政治的・経済的・思想的)意見の「相違や対立」に、
こういう語を使うのは「不適切」で許されない、「議論のルール」違反だ、
という「判断基準」「価値基準」が私のうちにあったからである。

おまえは「反日」だというレッテルを貼り付けることは、

お前は私たちと同類ではない
「社会の異分子」だという「存在自体」の排除の論理を含む。
「意見批判」の主張ではなく、「存在排除」主張に転ずる。
無責任に国民を分断する「志向性」をもつ。
排他性は社会に巨大な惨劇をもたらす「火種」となりうるのである。

付け加えれば、
日本人同士に向けられる(レッテルとしての)「反日」の語は、
あの悲惨な戦時下の日本において「全国民」を軍部独裁に従わせるために
使われた暴力的な強迫の「レッテル」としての「非国民」の語に酷似する
ということである。

議論を許さず、相手に「非国民」という「レッテル」を貼りつけ、
それによって社会的「異端者」=「魔女」の烙印を押し、
社会の内部に「社会の敵」を創り出す。
更に、自分たちとの意見に同調しない者を社会から排除するのを当然視する
「排除の風潮」を作り出し、国民自体もこの風の一部となって風圧をあげて
狂暴化する。意見の異なる者の「存在」を社会から抹殺するやり方だ。

20世紀は「暴力と戦争の世紀」と呼ばれるが、
あまねく人類の歴史は無数の不幸の事例を記録に残している。

(→ヨーロッパなら、宗教戦争、同じキリスト教内の旧教・新教の対立と
血みどろの戦争、残酷な異端者裁判や魔女狩り、
イスラム教対キリスト教の敵対・「十字軍」のもたらした惨劇、
ナチのホロコースト、ソ連の強制収容所の残虐等々、
現代の世界にも消し難い傷痕を残している。)

(→江戸時代なら 、排他性の論理が生む暴挙の例として、
キリスト教弾圧の「踏み絵」や「隠れキリシタン」の残酷な歴史物語を
思い出してもよい。)

4.結論
人は「同じ感情・同じ考え方・同じ宗教習俗習慣」
の同質の人間たちだけが、一つの場所で暮らすと波風が立たなくて、
「楽ちん」だと錯覚するかもしれない。

しかし、実際にはそんなことは不可能なのだ。
いわば「単一の農産物の生産だけで生き延びようとする」のに似て、
閉ざされた「未開社会」に逆戻りするようなものだ。

人間集団が「多様性を欠く」と活性を失い脆弱化する。
遺伝子の多様性と同じだ。

ネット上で、意外そうに吐かれた「反日なの?」の一語は
それが世論を反映しているとみうるならば、
日本社会において「多様性の危機」が現に潜在することを
暗示しているのかもしれないのである。

現代の日本社会も、
危なっかしいポジションに立っているのかもしれない。
<2018.10. 25記>

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