<風船の徘徊 5>  老いもまた楽し


<はじめに>

自我の目覚めは少年期に始まるという。

例えば、幼稚園の頃から、子ども同士で遊んでいて少し意地悪されると
直ぐに泣く、友だちに泣かされてばかりの男の子がいたとしよう。
この子がやや成長し、やがて「ボクはどうしてこんなに弱虫なんだろう」
と思い始めたとする。
この時に、彼の心の中に 「弱虫なボクA」 に「何故弱虫なの」
と問いかける もうひとりの「ボクB」 が加わる。

少年の「内なる世界」に、A・B二人のボクが同居しはじめる。
対話し始める。
彼は泣かされ、ただ泣いているだけの幼児のボクではなくなった。

自己反省、自己点検、自己評価、自己認識、自意識は、
すべて「二人のボクABの対話」・「自己との対話」から生まれるのだ。

ついでに言えば、最近流行りの「若者の言葉」に、
「自分を見つける旅」なんていうのがある。
これもこのことと関連する。

「自分で自分がわからなくなった。」
「本当の自分が解らない。」
「自分の本心がよくつかめない」とも言う。

彼らは(自分が生きてきた環境の中で)本当の自分を見失ったと思い悩む。

だから、未知の旅をして別の「環境」(=日常から遠く離れた場所)に
自分の身を置いてみて、本来の自分を再発見したいと願う。

若者に限らず、社会の流れに逆らわないよう、すすんで自己規制し、
自分を殺して企業社会の意に迎合しつづけて生き、
ある日突然「自己嫌悪」に陥ることはよくあることだ。

好きになりたいのに、自分を好きになれない、と思い悩む。

それは、上記の真摯な「ABの対話」を自らに許さず
「自己との対話」を避けてきたことに起因する。

Bを沈黙させて、 Aのみが外部世界に順応することで
事足れりとして生きてきたことが原因なのだ。

しかし、それは恰も「鳥が片羽根だけで飛行を試みる」が如く
不自然なことであって所詮無理が生じる。

本来自分とは「Aの自分とBの自分」の両方を丸ごと含む「私」なのだから、
健全な自己認識を失って当然なのだ。

自分AとともにAを見守る「もう一人の自分B」も成長するのでければ、
AとBとの「まじめな対話」が育ち成熟して行くのでなければ、

―(1)人間性の形成は望めないし、
―(2)自尊心も育たないし、
―(3)望ましい自己愛が生れることもない。

AとBの「その対話の世界」こそが「本当の自分の世界」であり、
その世界の豊かさが個性を豊かにする。

人がよりよく生きるためには、「自己と対話」する「内なる世界」を
豊かにしなければならないのである。


<内なるA・B「ひそひそ話」>

ところで、只今「呆け進行中」の私の内にも、
「呆けのボクA」と「呆けのAを見守るボクB」がいて、
日々AとBが盛んに話し合っているのだ。
ほんのちょっと、立ち聞きしてみよう。

<只今笑談中>

(ちょっと以前の会話)
A「ボク呆けてきたよ。物忘れが増えてきた。イヤだね。」
B「そうホントにイヤだね。もっとよく注意しろよ。」
A「うん。気を付けるよ。」

(しばらく経って)
A「さらに物忘れが増えてきたよ、自分がイヤになる。悲しいね。」
B「そう落ち込むなよ、自然現象だと思って、そろそろ観念しろよ。」
A「うん。なるべく深刻に考えないことにするよ。」

(またしばらく経って)
A「今日は3回もポカやったよ。以前はしくじると自分が悪かったって、
罪悪感を感じたけど。今は「またやったか!」と他人事みたい。
やったのはボクじゃあないという感じかな。」
B「そうそう。君じゃなくって呆けの仕業なんだ。
ボクも呆けの奴がまた出てきたか、なんて思うよ。
時々ボクら2人の世界に突然割り込んでくるヘンな客だよ。」

(またしばらく経って)
A「このごろは失敗すると笑えて来るんだ。滑稽だね。
自嘲の笑いじゃあないよ。」
B「呆けと仲良しになったのかな。ボケとの2人3脚で行くか。
時々一緒に転ぶのは仕方がないとしよう。」
A「転ぶと、ちょっと痛いけどね。
馬鹿なことをしてふざけ合う子どもの遊びに似ているのかな。」
B「時々危なっかしいことも起きるけど、笑って済ませばいい。」

結論が出たわけではない。人生の夕日が沈むまでつづく議論だろう。


<呆けに馴れ親しむ>

Bの立場から、「ボクAの呆け現象」を観察してみる。

(小さな脳梗塞があるからだろうか)Aは直前に、
「しようと思ったこと、言おうと思ったこと」の内容を、
その直後に忘れててしまうことがある。

もちろんのことだが、何が記憶から消えたか分からないから、やっかいだ。

気付かぬうちに記憶から抜け落ちたものがあって、
抜け落ちたことの自覚だけが残る
日々「探し物はなんですか?」の唄が心の奥底から聞こえてくる。

以前なら、容易にできていた日常の事が、時々できなくなる。

これまで日常生活で大した苦労もなく、
頭の中で思ったことに優先順序をつけて整理し、
順序立てた「筋書き」を頭に置きながら、
それに照らしつつ自分の行動をコントロールしていた筈だ。
そんなことは、瞬時に、なんなくできた。

それが老人呆けが始まった私にうまくできないのは、
「短期的な記憶」のザルにわずかな水もれがあるからだ。
何が流れ落ちたか分からないが、水漏れの音には気づくのだ。

論理的な思考力が落ちたからでは決してない。

今しがたやろうと思ったことを、
「思った通りに実行する機能」が損なわれているのは、
「短期記憶機能」が十全でないせいなのだ。

この種の、この程度の、呆け(=後でポカに気づくレベル)は
付き合いやすい。対応しやすい。

手なずけるべき「敵」は、短期記憶のザル漏れだ。
「標的を射る方法」も明確だ。
と私(=B)は楽観することにした。

記憶機能に有効な補助線を引けば問題は解ける。

1.「メモ帳」と「頭のメモリー」との2人3脚で生きる。
メモを「書く習慣、見る習慣」を生活習慣に組み込む。、
メモを壁や冷蔵庫の扉に貼り付けることにする。

2.記憶をこぼさぬよう
何事も急がず、
ゆっくり時間をとってやること。

3.失敗して手間取っても、
まだまだ十分時間に余裕があるくらいに
予定の所要時間を水増しておくこと。

4.総じて、モットーとするべきは、「簡素」。
シンプルに考え、
シンプルな遊びを楽しみ
シンプルなリズムで生きることだ。

幼児に学んで、(シンプルなことを)
くりかえし、ゆっくり、こつこつ、
そのリズムを体得して、

呆けを包みこみ飼いならす余生のリズムを作り出すことだ。
呆けに「自分の色」を塗りつけ塗りこめばよい。


<むすび>

老人はいつか来た道を戻っていく。
下り坂から見る眺めは懐かしい風景だ。

そして、内なる世界では今日も AとBが漫談まがいの対話に夢中だ。
呆け現象を「半ば嘆き」「半ば楽しみ」、
「ボケとツッコミ」の「楽しいボヤキ漫才」をつづけている。
二人の話の結論も落ちつくべきほどよいところに落ち着くだろう。

私は今「老いもまた楽し」と考えるようになっている。
私の内なる世界でも外の世界でも、
時々いい風に吹かれる機会ががあるからだ。
<2018.10.17 記 >

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