<風船の徘徊 23>  母さん 川はどうして笑っているの
 
 
1.<川>
 今、老い耄れてなお、私は川を見るのが好きだ。
 
子どものころ、よく大川に行った。
大川は郷里の町の南側境界をなぞるように流れていた。
大川には木製の梯子の階段が設けられ、階段の下は石とセメントで造った少し
広い共用の洗い場があった。 灌漑用水を小川に導く小さな水門(樋の口)もあ
った。
 
川は、家事にかかわる女たちが物を洗う「洗い場」であり、
「子どもの水遊びの場」でもあった。
 
水は井戸から鶴瓶でくみ上げる以外使えないものだったが、
川に行くと自由に使ってよい「きれいな水」が無尽蔵に流れているのが、子ども
にとっても、大人にとっても嬉しいことだった。
 
水生の昆虫や両生類や、ふな、はや、ドジョウ、えびなどがいたし、
その季節になると無数のホタルも飛び交った。 
大川の水は水門を通して小川となって流れ、溜池や水田を満たし、水とともに水
生生物の生命をも「田園風景」に送り届けていた。
 
子ども時代、
川は絶えず水が流れている、岸辺も流れも生物の宝庫、誰のものでもない自然の
遊び場。 川って「不思議」、川って「面白い」という印象が強かった。
 
(以下、川への想いは、3.の 詩「川」に繋がる)
 
 
2.<風船の徘徊21へ>
 ここで横道にそれて、前々回に触れた問題に一寸立ち帰っておきたい。
 
<徘徊21>で「プリント学習」による幼児・児童の教育方法について、それ
は「即解即答型」の人間養成とその基礎訓練を目指すもので、その目的の範囲
では有用だが、教育される側にとっては「面白さ」(向学ではなく好学への志
向)に欠けるうらみがあるという点で、疑問符をつけた。
 
プリント学習の継続だけでは、学びに必要なもうひとつの大切なものが抜け
落ちるという趣旨だった。 何が欠けるのか?
その学習方法は、A.好奇心を触発し、B.好奇心を起点とした「質問する喜び」、
C.さまざまな豊かな「問いを発想する能力」を発達させることがない。
その発達を促す「視点」が欠けるということだった。
 
幼児の「知の発達心理」を観察していると、2つの特徴をもつのがおのずと知
られる。
 
1)見聞きするもの、関心が生じたものに「あれは何?」「何故なの?」と、何
でもかでも矢継ぎ早に訊きたがる、「質問したい欲求」(大人が応じるのに困難
なくらいだ。)
2)逆に、すでに知っていることは、言いたい、問いかけて欲しい、そして「答
えたいという欲求」(「なぞなぞ」を出し合って遊ぶのもその表れの1つ。)
 
上のような顕著な2つの性向・志向が存在しているのに、誰もが気づくはずだ。
 
両者の欲求はともに、「新たに知る喜び」、「既に知っていることの喜び」が
源泉となって、そこから湧出してくるものだ(知の取得・蓄積・発信)。
 
今風に言えば人間には、幼児にも、大人にも、 A)発問による「知の入力」
への欲求と、B) 提起された問題に回答するという「知の出力」への欲求、の2
つが共存する。
 
教育は、学ぶ側のこの2つの「主体的欲求」に「応える」ものでなければいけ
ないし、その2つを「育てる」ものであることが必要だ。
 
(出世教育・受験教育が主流の)公教育は、専ら「答えの出力」の能力を求め、
それを目的とする方に傾きがちである。(その結果エリートは、概して「問いの
発想力」が貧しいという弱点をもつ。) また、「強制、強要」の方にも傾きが
ちだ。
なので、幼児や児童の家庭教育では、そのことに十分留意することが望ましい。
 
「学び」とは、「学問」とは、本質的には
「人間の心の遊び」・「自問自答の遊び」だと思えばいい。
それが面白いから、面白くてたまらないからこそ、科学を含む学問も文化・文明
もここまで発達を遂げたのだ。
 
「大学の学問の自由」も「子どもの教育を受ける権利」も、人間の「幸福追求
権」から派生する権利なのだから、その「自由、権利」を享受する過程も「楽し
いものであるべきだ」と考えるのが正道なのだ。
 
 
3.<谷川俊太郎の詩「川」>
幼児教育論の理屈っぽい持論はこれくらいにして、ここで谷川俊太郎の「川」
という題の詩を読んでみよう。 
 
詩人は、川について A) 発問すること、と B) 答えること、の「2つ」を
楽しんでこの詩を作っている
(→幼児の発問、母さんの答え、という形式をとる)。
 
面白い問いを発しないと、面白い答えは返ってこず、詩の内容も面白くなりは
しないということにも留意しつつ読んでみたい。 詩は5連からなる。
 
「川」
 
母さん
 川はどうして笑っているの
太陽が川をくすぐるからよ
 
 母さん
 川はどうして歌っているの
雲雀が川の声をほめたから
 
 母さん
 川はどうして冷たいの
いつか雪に愛された思い出に
 
 母さん
 川はいくつになったの
いつまでも若い春とおないどし
 
 母さん
 川はどうして休まないの
それはね海の母さんが
川の帰りを待っているのよ
 
 
4.<私の鑑賞>
(全体として)
この詩は、幼児が母さんに質問し、母さんが幼児に答える形式を貫いている。
 
「母さん」という呼びかけの語が、第1連から5連まで各冒頭に配されている
が、その言葉が詩に「リズム」感を与える(音楽性の付与)と共に、繰り返し繰
り返し質問を浴びせかけて来る幼児の「可愛い習性」の存在を表現するものとも
なっている(意味の付与)。
 
川は、幼児の質問において幼児語らしく「擬人化」されているが、それは母さ
んの答えにおいても踏襲されている(母子の対等な対話の成立)。
 
(各連を順次みると)
1.日の光を受けて川がキラキラ光っているのを「川が笑っている、太陽がくす
ぐっている」と歌い、
2.川辺や頭上の鳥の声が川の流れの音に呼応するさまをとらえ、「雲雀が川の
声をほめたから」「川が歌う」と表現し、
3.「山の雪」の体内に抱かれていた「雪解け水」に由来する川の「冷たさ」を
雪に愛された「愛の思い出」と表現し、
4.川は絶えず「生命の水」が流れる。春は東風が吹きわたって山野に新しい「生
命」を目覚めさせ大地に命の息吹を吹き込む。だから川は早春の若い「春」と「同
いどし」、いつまも「若い年齢」のまま、と歌い、
5.川が「休まず流れる」のは、「川の母さん=海」が川の帰りを待っているか
らだ、だから、川は休まずに「(万物の)母」である「海」のもとへ帰りを急ぐ
のだと歌いあげる。
(海は、海という「文字」のなかにも、母が存在する。
海は、水の惑星「地球自体の生命力の源泉」「万物の母」なのだ。)
 
川は自然と唱和し「存在の喜び」を自然界の全事物と共に合唱する。
 
この詩の面白さは、「実の自然界」と「童心の自然界」が二重映しとなって重
なり合い「一つの新しい世界」を創り出しているところにある。 
その一つの世界とは <川、太陽、雲雀、雪、春、海、人(母さん、幼児)>
のすべてが相互に交信し、相互の対話可能性が成立する(同じ宇宙を構成する)
「対等の存在物」として共生共存する世界だ、といえるだろう。 
「現実の自然」と「想像上の自然」が1つとなる楽しい詩の世界だ。
 
 
(「鑑賞は、いや、鑑賞もひとつの遊びである。 詩と自由に遊ぶことができれ
ば鑑賞は成り立つ。鑑賞とは、「詩人の詩心・詩情」との自己流儀の<(虚構の)
対話>といってよい。」というのが私の立場だ。)
( 学校教育では、詩の正しい理解、正しい鑑賞、「正解」を教えるのだが。)
 
 
5.<補足>
一般的に言って「既存の通説」や「常識的な信念」に対し疑問を呈し、新たな
「問い」を発する能力は「知的能力」としてたいへん重要な要素だ。
 
歴史上の「大転換」(例えば:「天動説から地動説へ」「独裁から民主へ」
「女性解放」)や無数の「小転換」の事の起りが、そのほとんどが人間の疑問を
もち「問いを発する能力」と深く関わっていたことは自明である。
「発問能力の育成」を軽視しはいけないのは当然のことだ。
 
上記の谷川さんの詩は「問いを発する楽しさ(大切さ)」と「問いに答える面
白さ(大切さ)」を理屈ではなく直感的に教えてくれる。
 
谷川さんは多作の詩人だ。同じく「川」と題する別の詩もある。
他の詩人に例を見ないのは、彼の詩には、「問いと答」という題の詩もあるし、
「質問集」という題で<質問ばかりを集めた詩>もあることだ。
発問を重視し、大切にしている詩人だ。
 
ついでに紹介すると、詩「質問集」の中で出会った問いかけの1つに、こんな
のがあった。
 
「あなたの発することのできる<もっとも大きな声>、
その声をあなたは何に用いるのでしょう、怒りの表現、喜びの表現、
苦痛、それとも<他人への強制>、あるいはまた、<単なるおあそび>?」
 
(<>は、私が付けた)
 
この「詩の問いかけ」が、人種間民族間の「憎悪と蔑視」を煽っている「我ら
が時代」の「政治的熱狂」を、少しでも鎮めてくれる鎮静剤にならないでしょう
か?
残念ながら、熱狂の「渦中」に入ってしまった人は、聞く耳を持たない
でしょうね。
でも、悪循環の「渦の外」にいる者に対しては、
この問いかけは静かに「自省を迫る力」をもっているにちがいない、
と私は思います。  
(2019.8.27.記)
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