<風船の徘徊 21>  人生末期 私が気になること 

 

 

1.

「一杯のコーヒから 夢の花咲くこともある」

 

そういえば

何か素敵なことが起きそうな予感のする「夢誘う時代」もあった。

 

 さて、今の時代はどうだろう?

若い方々はどう思っているのだろうか?

私には 少し、いや、たいへん、 ぎすぎすした「嫌な時代」になってしまった

ように思えるのだが・・。

「時代のバス」に乗ることを諦めた老人のせいだろうか?

 

コーヒといえば、町のコーヒ店はすっかり様変わりした。

家族経営でやっていた「小さな喫茶店」は姿を消した。

常連客が お互いに、あるいは、店の主人と、

しばしの四方山話を楽しむ日常の風景もなくなってしまった。

 

周知のように、替わってセルフサービス型の大型店が大勢を占めている。

店の雰囲気は、混みこみの「駅の待合室で」 売店のコーヒを買って飲むのに

似ているかも知れない。

 

前者の小型店は 顔見知りの親しみをもつ客同士、

後者の大型店の客は 雑踏の中の大衆に似て他人同士、

が席を占めている。

おのずと雰囲気が異なる。

 

大型店で隣席の人に声を掛ければ、迷惑顔をされるに決まっている。

 

 

2.

 私の家の近隣にも大型コーヒショップU店がある。

いくつもあった小型のコーヒ店は 概ね町から姿を消した。

U店内の様子をそれとなく観ていると、現代社会がおのずと見えて来るようだ。

客層は赤ちゃんから、私のような耄碌老人まで、すべての年齢を網羅する。

 

「いつも独りでやって来てボーッとしている老人」 「介護者と共に車椅子で

やってくる老人」 「仲間とともに心ゆくまでおしゃべりがしたい女性たち」

 「受験生の中高生、資格試験準備中の大人の受験生」 「外人から英語や仏語

の個人レッスンを受ける女性」 「PCでの仕事を持ち込む若い社員」 「本を

読みに来る人」 「子どもを遊ばせたり、勉強させたりする場所にしている母親

たち」 「夏の夜家族ぐるみで涼みに来る人」エトセトラetc.

一番の多数は、いずこも同じ いっときもスマホを手放さない「スマホ族」だ。

 

 

3.

本題に入る。 私が他人事ながら(そう他人事なのだが)気になるのは

若い母親に勉強させられている子ども(幼児から小学生まで)の勉強姿だ。

それは母親の意識の中での受験競争の激しさ想わせる。

母親も時代の犠牲者かもしれない。

 

ときどき席を立った時などに、ちらっと見る程度だが、たいていは塾や企業

(教育産業)が提供するプリント1枚に印刷された問題を

幼児ならゆっくりと、小学生ならがそそくさとやっている。

教育企業と、その下請けの母親が、子どもに日課として課しているものだ。

 

子どもは、早く解放されたいからか、面白くないからか、

慣れてくるといいかげんなやり方で、素早くこなしていく!

 

「即解即答型」の人間養成を目指す基礎訓練なのでしょうか ?

「毎日勉強する習慣」をムリにでも身に着けさせるのが目的でしょうか ?

 

子どもの作業中母親はスマホに見入っているが、子どもが作業を終えると、

学校の先生のように事務的に「まる・ばつ」をつけて、子どもに返す。

 

2人だけのマニュアル通りの流れ作業。 母親の役割はさしずめ「検査工」。

 

 

4.

 私はひそかに思う。

「そんなことを続けていると、子どもが勉強嫌いになっちゃうかもね」と。

もちろん、

そんなことを口に出して呟こうものなら、母親たちから大目玉を食いそうだ。

 

それも当然のことだ、と思う。

そういう教育方法は、今やわが社会の趨勢となっているものである。

子どもにエリートコースを歩ませたい親たちの心を虜にする

いわば「最新教育技術の結晶」のように喧伝されているものだ。

高学歴のママたちが、(学歴偏重社会を配慮して)我が子によかれと思って、

当該の教育コース(「教育商品サービス」のパッケージ)を選択購入してやって

いることだ。

 

子どもの教育は 親の責任領域、親の専権事項なのだから。

口出し無用!

 

それでも、と私はなおも心の中でひとり思い続ける。

 

「いつでも」「誰にでも」よく効く「良薬」がないのと同じように、

いつ誰にでも効果的な「良い教育方法」なんてものは ある筈もない。

 

いつ誰にでも、まあまあよかろうという一般性をもつ「万能薬」に類する

教育の部分は、「文部省の役人と学校」に任せることにして、

家庭教育は、「個別の特性に着目して」「好き」を伸ばすもの、

そして何よりも、楽しいものであってほしいと願う。

「公教育」と「家庭内教育」は違って当然で、違わないといけないのだ。

 

いち早く産業革命を達成し近代国家となった英国では長い間「公教育」には

「むち」が付き物だった。

鞭の行使が(馬車馬の場合ように)公教育推進のエンジンの一部になっていた。

(小説なんかに、全生徒の前でお尻を剥き出しにされて鞭でひどく叩かれる

場面が出て来る。 チャップリンの自伝にも出て来る。) 

日本ではむちは使われないが、公教育の推進にやはり「暴力的な強制」が伴った。

(明治期以降、日本を訪れた欧米人が「鞭打ちのない日本の教育」に驚き敬意を

持ったと書いているのを読んだことがある。)

 

「義務教育」などと言うが、子どもに教育を受ける「義務」があるわけではない。

子どもは教育を受ける「権利」があるのだ。

親には、子に(義務)教育を受けさせる義務があるが、

それは教育を受ける「子どもの権利」を保障するためだ。

教育は国家百年の大計といわれる。

子どもの「教育を受ける権利」を保障する制度や施設、教育環境を整えることは

国家の「義務・責任」に属することは言うまでもない。

 

子どもの「教育を受ける権利」は、人間の「幸福追求権」の1つである。

 

 

教育の問題を思うとき、私はいつも吉野源三郎(後注)のことばを思い出す。

教育論を特集したある雑誌の巻頭論文で、次のような「比喩」を用いて教育の

本質を語っていた(引用は記憶に基ずくもので、文字通りのものではない)。

 

 

馬を水辺に連れて行って無理やり水を飲ませようと思っても、馬が飲んでく

れるとは限らない。水を飲むかどうかは馬の主体的な欲求にかかっている。

教育の成否を左右する最も重要な鍵も、学ぶ側の「主体的欲求」如何にある。

 

強制では、「通用しない」。「成功しない」のだ。

 

 

(注) 吉野源三郎(1899〜1981)。昭和を代表する知識人・言論人・

思想家・徹底した民主主義者。 (東大哲学科卒)。

「戦前」

1937昭12に、児童向けの名著「君たちはどう生きるか」を刊行。

1938年、岩波書店入社。 以後同社編集関係で活躍。

1938.昭13に「岩波新書」創刊。

「戦後」

1946.昭21にいちはやく雑誌「世界」を創刊。

初代編集長となって反戦・平和の論陣を張り、今日の「世界」の礎を築く。

 

<2019.7.10.記>
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