<風船の徘徊 2>  希林さんが亡くなった

 
日本の映画界は彼女の喪失をどのようにして埋めるのだろうか ?

是枝監督は自分は「2度母を亡くした」と、その悲しみを語ったが、
映画界自身が偉大な「母」を失ったのだ。

近い過去の例では、渥美清が亡くなったあと、映画界に大きな穴があき
今もって埋まっていないことは映画ファンなら周知のことだ。
歌舞界における勘三郎の死も歌舞伎の魅力を大きく削いだままだ。

私はもちろん(松竹や)映画界の代弁をしているわけではない。
映画や芸能の「供給側」と同様に「観客側」にも、希林さんの死によって
大きな穴がぽっかりとあいてしまった。
その事実に注目したい。
幸せの「提供側」と幸せの「受取側」は共通項・太い絆で結ばれている。
だから、大衆に愛されつづけた、その時代を象徴する
偉大な芸能人の死に、国民的な涙がそそがれる。
深い喪失感は、熱烈な希林ファン固有のものではなく、
国民的なものだといってよいだろう。

他方同時に、私たちの胸の奥底に湧き出るもうひとつの感情がある。
それは、この稀有の名女優と同時代にあって、その名演技ゆえに
映画というものを通して、私たちの生きる時代の「怖さと面白さ」を
深く感じ取ることができたという歓びの感情だ。

世はまさに「高齢社会」。 
現代の社会と時代の特徴を鋭く映し出す「いい作品」には、
老人役を演じる「名優」の存在が不可欠なのだ。
希林さんはこの「時代の要請」に見事に応えてきた。
一言でいえば、「老女役の重要」な映画を無上に面白くしてくれたのだ。

希林さんという役者に、この時代に出会えたことは、
ほんとうにラッキーなことだったとつくづく思う。

私たちは、彼女の「役者人生」と並行しながら生きてきた。
この偶然に感謝しなければならないだろう。
<2018.10. 02. 記>



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