<風船の徘徊 17>  エリート層 卵たちへの祝辞


1.<上野千鶴子さんの祝辞>

この4月の入学式シーズンでは、東京大学入学式で上野千鶴子さん
(東大名誉教授)が新入生に語った祝辞がマスコミで話題となりました。
その全文がネット上にも登載されたので読みました。

そこでは、
第1に、新入生の女子学生に対する上野さんの熱いエールとともに、
第2に、男女学生に対して、東大で学ぶ者としての姿勢について厳しい注文と
忠告が語られていました。

日本社会の「女性差別の反映」が東大の中でも見られること、また東大生は
東大という恵まれた学問的環境のなかで、自己本位になって「社会的弱者」への
関心・共感を失ってはならないことが説得的に語られていました。

東大生といえば、いわば日本のエリート層の卵であり、うまく孵化するにしろ、
しないにしろ、近い将来に日本国の指導的役割を担うことになる人がその中に
含まれていると考えていいでしょう。 だから、
(1)単に、若い力の活躍を期待し、入学を祝福するだけでは足りない。
(2)その「活躍の視点」への期待とともに、入学を祝福することが必要です。
上野さんの祝辞にはそのことの考慮が含まれていて私は敬意をもちました。

今の時代は周知のように、地球上のいかなる国もが、
「国民を分断する」深刻な経済格差を含め、民主主義の危機、地球環境の危機に
直面し、地球は世界内乱の様相を呈していますので、
抜本的な社会システム改善の総合的知的解決策が求められています。
世界規模で政治・経済の指導者であるこれまでのエリート層への不信が目立ち
ますが、同時に新しい価値観に目覚めたエリートの輩出が期待されます。

その意味で上野さんの祝辞は「世界と時代」が、
日本の若い学徒や新しいエリート層に求めるべき「生き方」としての
「活躍の方向性」を示す点において、的を射ており、内容の上でも卓越したもの
でした。
私も同感する立場から、これから学問の府の門をくぐる若者たちにエールを
送りたい気持ちになりました。

2.<ボーイズ・ビ・アンビシャス>

 ちょっと横道に逸れますが、私はこの祝辞を読んだあと、あの誰もが知って
おり、私も小学校時代に聞いて知ったクラーク博士のことばを思い出しました。

江戸時代以来、民間レベルで「寺子屋や私塾」を通じて
盛んな「学問への志向と尊敬」はあったものの、
日本がまだ国としての「学制」をもっていなかった明治の初期、
政府にとって「近代的な学校制度」の確立が急務であった時がありましたが、
その時期に北大の前身である札幌農学校の創立に関わり、
同校の初代の実質校長に就任したウィリアム・スミス・クラーク博士
(米、1826−86)が語ったとされる、あのことばのことです。

「少年よ、大志を抱け!」「Boys, Be Ambitious !」

70年以上も前に聞いたことばを今も覚えているのは
少年期を通じて私の心に深く刻まれたからだと思います。

 当時は敗戦後の貧しい時代であり、子どもは大人の命令に縛られて、
その範囲で行動しなかればならないとする鬱屈した心境にあるのが常態だった。
ですから、このことばによって「大志を抱いて、自由に生きてよい」という
勇気を与えられたような気持ちになったのでした。

私にとって、生涯忘れることのなかった「ことば」です。

「だが、・・」と、今頃になって私は「疑問」に思うのです。
私が疑問に思うことは次の2点です。

第1は、この言葉を同世代の少女たちは、どう受け止めたかということです。
第2は、「Boys and Girls, Be Ambitious!」
と、クラーク博士はどうして言わなかったのかということです。

少女たちは、「私たちはお呼びでない」無視されていると、
少年が勇気づけられたこの言葉に反感を示し、反発していたでしょうか?
それとも大人社会が決めた役割分担が違うのだと思って納得し、
特に少女が除外されていることに、不思議に思ったり、
悔しいと思ったりしなかったのでしょうか? 
それとも馬耳東風。心に届くことなくさえなかったのでしょうか?

今ごろになってこんなことを思うのですから、クラークのことばに
「Girls」の語が欠落していることに、当時私は関心を示さず、
私自身がそのことに違和感を持つことがなかったことは明白です。

3.<ヤングレディズ・ビ・アンビシャス>

上野さんの祝辞によれば、東大生のなかで女子学生の占める比率は、例年2割
程度で、今年は18.1%だったそうです。
上野さんは、学者らしく統計やデーターを重視してそれに基づいて話を進めら
れます。

私の興味を引いたのは、下記(データは祝辞からの引用)のような東大のなか
における「女性の占める比率」の「変動」およびその「対比」の指摘です。
女性の比率が学部学生では20%なのに、博士課程では30%を超える
(→女子学生の向学への盛んな意欲を感じさせる)。
しかし、それを頂点にして下降することの意味(→採用・就任の性差別の問題が
潜在するか?)について、考える必要に迫られます。

――学部    学生    20%
――大学院---修士課程    25%
------------------博士課程    30.7%

――研究職---------助教    18.2%
---------------------准教授    11.6%
------------------------教授     7.8% (国会議員の比率よりも低い数字)

――学部長        15人中1人
――歴代総長          0人

こういう現実を前提にして上野さんの祝辞は、より直接的には東大女子学生
の意欲の喚起に向けられている。そして、
祝辞の中核には「Young Ladies, Be Ambitious!」の願いがある。

しかし、上野さんの祝辞の基調は、扇動的もしくは情緒的なものではなく、
現状分析を踏まえた論理的なものです。
小論文を読むような心地よさがあります。

私は、今年の男女を含む東大入学生たちは、こういう真っ当な祝辞で迎えられ
て、たいへん幸せだったろうと他人事ながら嬉しく思うのです。

一生のうちのたった1日しかない、憧れの大学の門を叩く知的な「晴れの日」に
その「喜びと期待」が心に熱く燃えるまさにその瞬間に、
形式ばって退屈な儀礼的美辞麗句ではなく、
悪戦苦闘して女性学を切り開いて東大教授となった上野千鶴子の「人格と良識」
をまるごとぶっつけたかのような真情あふるる「大学への歓迎の辞」に
接したのだから、その偶然の出遭いは
文字通り彼らにとって大いなる幸運だったに違いない、と。
私はつくづくそう思います。

4.<結び>
上野さんの祝辞には、内容をそっちのけにして、ネット上センセーショナルな
「事件」としてに受け取られかねない懸念が伴いました。
「上野千鶴子が東大の入学式で祝辞を述べる」あるいは、「述べた」と言う
こと自体が事件としてのニュース性を帯びるからです。
世間はとかく出る杭を打ちたがる。
世論は根拠なき「偏見」に満ち満ちているからです。

このコラムを読んでいただいた方には、ネット上で上野千鶴子さんの祝辞全
文を是非お読み頂きたいと願います。

上野さんのこれまでの社会学・女性学での奮闘について、私は敬意をもってお
り、興味の及ぶ範囲でその著書の一部を読みましたが、ファンというような立場
にはありません。
だから、この祝辞を贔屓目に見たつもりはまったくありません。
読み物としても、十分おもしろく、時代と関わって有益性という点でも一読に
値する祝辞だと考えるので、この際是非お勧めしたいと思っているのです。
<2019.5.1記>

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