<風船の徘徊 16>   「ジャポーンするの」
 
昨年の五月ころ、夙川公園を散歩していて、こんなことを経験した。

 むこうから三、四才の女の子が両手のひらを一つにして「蓮の花」のような形を
作りながら、小走りでやって来る。
見ると手のひらのなかにいくつもの小石がのっかっている。
女の子は私の顔を見ると、立ち止まって「ジャポーンするの」と告げた。
嬉しくてたまらないといった表情だ。
「そう。面白い?」と私がそっと訊く。
幼女はこっくり頷いて川岸の方へ急いでいった。
その後に姉らしい子も続いた。

 私はかつて、まだ幼かった孫息子を連れて夙川の水際で遊ばせたことがある。
そのとき孫は川の流れに小石を投げ入れ、水が小さな音をたて
小さな水しぶきが上がるのを見て喜んだ。
その遊びを何回も繰り返した。
しかし、水際の岸辺は石畳で造られていて小石は少ない。

 だから、幼女たちが水辺から石段を上がって、上の公園広場にやって来て
小石を探し求めて集めたのだということは、
「ジャポーンするの」という
一言で直ちに了解できた。
 
川は、人と関わりなく五月の明るい光を宙に跳ね返しながらさらさら流れ逝く。
無心に流れる川に、幼児たちが小石を投げ入れることによって、
その瞬間、 川面に変化が起きる。
自分の行為によって、自然に流れる川に変化が起きるということが、
幼児にとって「人生初体験」の発見であり、新しい喜びだったのだ。
幼児期は、実に日々人生初体験の連続なのだ! 
それ故に、幼児期は心身の成長が「質・量・速度」共に人生最高の時期となる。
大人はしばしば幼児の「好奇心」の旺盛さと「感受性」の豊さに目を見張る。

 乳児は原初、母の胸の中だけが「与えられた世界」のすべてである。
乳児は成長とともに、そこを起点として外に向かって「自分の世界」が大きく広がり
変化していくのを体感しつつ、「世界認識」を深めて成長するのだが、
初めはただ外部の刺激を「五感」で受動的に受け入れるだけにとどまる。

まもなく乳幼児は「自分の動作」によって周囲に「変化」が起きることを発見する。
そうして自分の働きかけによって環境世界と積極的に関わる歓びと方法を学習する。

「おんも」に出ると、自分の行為によって関わることのできる「刺激」に満ちた
「新しい世界」が大きく広がっている。
幼児たちは、広がる青空の下で、川辺で、海辺で、草原で、樹々の間で、
未経験のことをことごとく試してみたくなるのだ。
行為を通じて未知だったさまざまな事物と関わること。
その一つ一つが文字通り「幼児の遊び」となる。
人の好奇心は、こうして乳幼児期の「無限定の遊び」の中で芽生え、全人生を通して
やがて樹木のように根幹を太らせ、枝を伸ばし葉を茂らせ大きく育っていく。

幼女は小石で「ジャポーン」して・・、
自分の未來の扉をノックし、未知なる「不思議の世界」へ、
一石を投じたのだ。

昨日まで知らなかったこと、できなかったことが、
今日は、知り、できる、という人間の「喜び」。
それは、こどもの成長を促進する「生命力の源泉(いずみ)」となる。

「成長の喜び」というものは、子どもが遊びを重ねながらその中で、
「内発的なものとして」体得するものだから、
「親や教師」が「家や教室」でそれを教え込もうとしても容易でない。

けれども、幼児の「この時期の遊び」がそれを易々とやってのける。
大人は自然のなかで、こどもを遊ばせ、見守り、手助けし、
童心に帰って一緒に遊び、その喜びを分かち合うだけでよい。

好奇心を人為的に育てようとするのではなく、好奇心が育つのをケアすること。
そのことこそが大人の務めであるとおもわれる。
<2019. 04. 01記>

 

Back