<風船の徘徊 14>  「シャンソン・ド・パリ」


私の学生時代は1957年から61年までの4年間。
経済成長の開始以前の時期で、社会は貧しく、学生生活も貧しかった。
多くの学生が、下宿や寮の自室に旧式のラジオさえもてなかった時代だ。
当時京都にいたが、コンサート開催の機会も少なく、
音楽の好きの学生は、月に1、2回、音楽喫茶に行って
ベートーベンやブラームスを聴くことができれば幸せな部類だった。
それだけで、芸術的な音楽にいくらか接しえたかのような特別の気分になれた。

そんな時代に1957年公開の仏映画イヴ・モンタンの「シャンソン・ド・パリ」を観た。
全篇モンタンがシャンソンを歌う音楽映画だ。
「枯葉」や「バトリング ジョー」を歌ったモンタンの姿が心に刻まれた。
私にとって魅惑的なシャンソンとの出会いは、その時がはじめてだった。

その時の感化でずっと、「イヴ・モンタンのシャンソン」は好きだった。

高度成長の時代が始まると、
トランジスター・ラジオ、オーディオ装置、TVが急速に普及した。
私も社会人となって、やがて家でもLPを聴く身分になったが、
聴くのはクラッシックがほとんどだった。
しかし、「イヴ・モンタンのシャンソン」は別格で彼のLPは大事にして聴いていた。

 LPレコードは何度もかけると音が劣化する。
CDが出始めたころ、私はLPからCDに乗り換えるのに懸命だった。
そんな時期(1980年代初頭)に仕事仲間のグループが企画したヨーロッパ旅行に
参加した。初めて行く半月間ぐらいの海外旅行だったが、
ヨーロッパは、街も王宮もアルプスの山々も、美術館・教会も、刺激的だった。

この時パリ滞在時に、自由な時間を利用してひとりでレコード店を探し歩き
イヴ・モンタンのCDを買い求めた。
日本ではまだイヴ・モンタンの「CD」が出ていなかった。
CDは私が大事にしているLPと同じ音源らしく、収められた曲目が同じなのが嬉しかった。

しかし、そのCDを持ち帰って何回もかけてみたが、なにか物足りない。
LPのときのような感動がない。
聴いてもいい気分に浸れないので、そのうちいつしか聴かなくなってしまった。
響きや音質の微妙な点で満足がいかず、結局当のCDはLPの代役を果たせなかった。
そうして私のシャンソンへの関心も遠のいていった。

 何年か後、仕事仲間との再度のグループ旅行中、友人のKに誘われて、
パリでシャンソン・シアター(シャンソン酒場?)に連れていかれたことがあった。
彼の案内でタクシーで行ったので、今もそれがどのあたりだったか知らない。
日本でいえば江差の民謡会館を小規模にしたような感じで、
その時、聴衆も多くはなかった。
フランス語で歌うシャンソンの内容が分かるわけはなく、われわれだけは、
笑うべきところも笑わず、黙っておとなしく聴いているだけだった。
そのためか、熱唱している歌手の方も、その反応のなさが気になるようだった。
パリが「シャンソンの本場」だとは言え、シャンソンが曲と歌の「物語性」と演技を
歌手と聴衆が一緒になって楽しむものだとすれば、仏語が解らない私が二度と
尋ねて行くべき場所ではないと思った。

原語が解らなくても、エキゾティックなパリの雰囲気や香りを漂わせる音曲として
フランス語で歌うシャンソンを楽しむことはもちろん可能だろう。
とは言え、それでは十全ではなく、歌詞の意味が全く分からないと、その楽しさは半分しか
味わえないだろう、と思う。

最近は、コンサートでは字幕つき(オペラ、文楽で体験した)という手があるだろうが、
舞台脇の字幕を見て、舞台中央の歌手の歌いぶりを見るというのは、
どうも慌しくて、こころの集中を欠くうらみがある。

その意味でも、岩谷時子のようなすぐれたシャンソンの訳詞家たちがいたことは、
日本のシャンソン・ファンにとって幸運だったといわねばならない。
たとえば、フランス語で「愛の賛歌」や「枯葉」を聴いても、それに平行して
私の頭の中を日本語歌詞が、そっと一緒に、音もなく流れるといった具合である。

越路吹雪や大竹しのぶが日本語歌詞でシャンソンを熱唱したのも、フランス生まれの
シャンソンの楽しさが日本で普及するのに大いに役立っているのではないか。

勿論、日本でも、原語フランス語で歌われてよい。
よいどころか、それがシャンソンの本来の姿であり、本物のシャンソンである。
本物こそ大切にしなければならない。
そもそも訳詞には本質的に限界があり、無理がある。
そのことは百も承知で、それでもなお私は、
訳詞の存在は貴重だと言いたい。

原語で歌われ、日本語の訳詞でも歌われる、
両者が併存する「あり方」がいい、と考える。

「人々が外国文化を楽む方法」として、また
「相異なる文化が融合する仕方」として
歌詞を日本語化する作業が、必要であり、価値あることだと思う。

「詩と音楽」の双方を得意分野とする訳詞家たちの「腕の見せ所」ではないか!
日本における「訳詞・訳詩文化の伝統と功績」に私は謝意と敬意を抱いている。
<2019.02.06.記>

Back