<風船の徘徊 12>  あけまして、お正月風景


数日まえ、クリスマスケーキを囲んで、「メリー・クリスマス」を唱和。
クリスマス・ソングを歌って国際色豊かに、一神教神
「イエス・キリスト」の降誕祭を盛大にお祝いしたばかりだが、
年末には気持ちを切り替えて、
多神教・「八百万の神々」の御前で私たちは敬虔な気持ちになる。
どの家も歳神「お正月さま」をお出迎する準備を始める。
だが昨今ではその準備がたいへん簡素になっている。

昨日は大晦日。
昔のように、煤払いも、大掃除もなし。
「ご破算で願いましては・・」とそろばん塾の「読み上げ算」風に
過去1年の「勘定」をご破算にして新規の「感情」に切り替えるだけでいいのです。
こころのリセットが「要」なのです。

お正月準備といっても、
西洋風の料理をほんのしばらく忘れることにして、
料理も衣服も部屋の飾り付けも、お正月の儀式と慣習に則って
和風にすることを心掛ければそれでいいのです。
しかし、社会が農林漁業人口が多数で、
「大家族」構成だった時のようにうまくいきません。
今は農林漁業人口は推定4%程度、ほとんどが「核家族」。
核家族ではそれが難しい。
老人のわび住まいでは一層むずかしい。

我が家なんかは、簡易も簡易。
神棚はなし、注連縄・鏡餅なし。
「年越しそば」だけは作るが、手作りの「おせち」は諦めて、
デパ地下の食料品店から配達してもらう。

お正月「準備」といってもほんとうはすることがないのです。
だから、心をリセットするだけのお正月準備なのです。

夜はただ安穏と
普段と変らない時を過ごしますが、
「行事」といえば、TVをつけっ放しにして、
越年行事としてすっかり日本に根付いた
お馴染みの「第九の演奏」を全曲聴き流す、というくらいのものです。
紅白は「知らない人の、知らない歌」ばかりになったので、
馴染めなくなって、ずいぶん以前から観なくなりました。
仕方なしに第九を聴くのでしょうか?
まあ第九は迎年の気分雰囲気作りには十分効果的です。
それが終われば、逝く年、来る年の、
カウントダウンの時をただひたすら待つだけという「シンプルさ」です。

神棚さえもない始末ですから、
神仏信心の心の方も今様で、
おごそかに聴く「除夜の鐘」も、畏こみて祈る「初詣」も、
そのためにわざわざ出掛ける気などさらさらなく、
一切の面倒は(無き神)棚に上げて、ただTVの前に座って、
諸寺の「除夜の鐘」の音を聴き、
暗闇を背景に照明で照らし出される美しい神社仏閣や
人々の手を合わせる姿を眺めて、
雰囲気を味わうだけで参拝した積もりになる。

大多数の人も私同様、それで少しは、その気になるらしく
TV番組「ゆく年くる年」は高視聴率のロングラン。超人気番組。

TVに映し出された人々の表情や服装を見て
年々の世相の推移を観察して楽しんでいた私も、
いつ頃からかこの番組を見ながら
こぞことしの境界越えをする習慣が身につきました。
毎年「三途の川」ではなく「年の瀬」を無事渡り終えた
私を見届けてから就寝します。

簡易化された方法ではあれ、紛れもなく除夜の鐘を聴いたのですから、
無事「百八煩悩」をその身から「デリート・消去」したとみて、
身勝手にも新しい年は、特別いい夢を見たいと願う。
そして、まずは初夢からと期待を膨らます。
(だが残念ながら、夢の内容どころか、
夢を見たかどうかも記憶に残らないのが老いの哀しさ)。

零時を過ぎて眠るのだから、遅寝・遅起き・「寝正月」。
「初日の出」を拝めるはずもなし。
早起きしようがしまいが、「若水」を汲む井戸はなし。
私宅同様、町々に長寿を寿ぐ「門松」を見ることもなし。
家の「内も外も」江戸時代よりも貧しい、
殺風景な「お正月風景」です。

それでも日本中の家々に、
昔なじみの「お正月様」は、嫌がることもなく来て下さる。

まあ今のところ、
憲法九条のお陰で、地球上に野蛮な戦争が絶えないけれど、参戦せず、
平和が続いているこの日本のことだから、
「めでたさも中位なり」と
「お正月さま」も「八百万の神々」もご同慶でいらっしゃるにちがいない。

下界で起きた前の大戦のときに、例えば「神風」特攻隊なんて
「神の御名」を軍部が手前勝手に利用し、恣に「民の神への信仰」を横領して
戦意高揚に利用したことには激怒なさっていた。
それは、神を冒涜悪用する「軍部」が悪いが、
それを支持し妄信した「民」の愚劣も許せない、と。
戦争惨敗・戦争の惨禍は日本国に下された「厳しい神罰」だったかも。

そもそも日本の神々は、「農業神」「漁業神」で恵み深く、
「平和な神様」なのだ。
今年の初詣でも、家族の健康と小さな幸せ、恋人同士の結婚の成就、
豊饒な収穫、平穏で平和な社会、を祈った人が多かったに違いない。
日本の神が「戦勝祈願」や「軍事大国祈願」に耳を貸されることはない。
平和の祈りこそ相応しい。

日本が今は「少子高齢社会」でむずかしい時期にあり、加えて、
低劣無能な政府による無策が続くが故に、
「景気」が一向良くなる気配がないことも先刻ご承知。
貧しくなった「お正月風景」は「民の不心得」のせいではないと、
それもやさしく寛容な心で見守って下さっているらしい。

そんなわけで 私も「お正月らしくないお正月」に
すっかり慣れ親しんで、安んじて、
今年も、まずはめでたき「無事迎年」と、
店屋物のおせちとお屠蘇だけできわめてシンプルに新年をお祝いしました。
まずまず、満足の迎春です。

「簡素・質素・シンプル・スモール」は老いを生きる「要諦」です。

2019年元日現在、地球上の「何処をどう」探してみても、
ブラウニングの詩句のような、
「すべて世は事もなし」
なんていう国はまったく見つからないのですから・・。

今年は「ちっちゃな」幸せを
大切にして生きることにしましょう。見逃さないようにしましょう。
そうすれば、生い先、幸先、また良しです。

みなさま、本年もどうかよろしくお願いいたします。

<いまのお正月風景>
「凧あげも羽根つきもなし 春景色」
(子らの遊ぶ原っぱがないのだから仕方がないか。)
「餅焼いて食うこともなし おらが春」
(独り居の迎春模様)
「松飾り 消えて寂しき 老いの町」
(老齢化が住宅街全体に及ぶ、物音せぬ寂しい正月)
「初春や 仕事始めは街徘徊」
(餌場・休息場があれば徘徊によし。徘徊は命によし。)

<むかしのお正月風景>
「一つとや、ひとりで早起き身を清め、日の出を拝んで水撒いて」(数え唄)
「お正月はいいもんじゃ。雪のような餅食うて、
油のような酒飲んで、お正月はいいもんじゃ。」(民話より)
<2019.1.1 記>

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