<風船の徘徊 11>  夢見つつ現を見る


<映画>
映画は快い夢を見させてくれる。
芸術的な映画は人の「幸不幸・喜怒哀楽」の現実を、
ときにリアルに、また象徴的に、詩情ゆたかに映し出す。

私たちは夢見る心地でそれをみる。
消灯され場内が暗転するとすぐさま、観客は夢の世界に吸い込まれ始める。
観客と夢との距離がどんどん狭くなり間もなくゼロになる。
彼らは終映まで、夢の周縁に佇み、あるいは、夢の中を彷徨う。
虚構と現実の綯い交ぜになった「夢の世界」の囚われ人となる。

人は観客となって、しばし「日常の世界」を離れて「非日常の世界」の住人となり、
其処で自分と周囲の現実を見直す「新たな生気」を得て再び「日常の世界」に立ち帰る。


<映画と「私の付き合い方」>
同じ映画をまた観たくなることがしばしばある。
別の映画館で再上映されるのを見計らって、
またいそいそと出かけ行って、もういちど同じ映画を観る。

八十路に届くようになると文字通り「毎日が日曜日」。 時間はある。
「シニア料金」は4割以上割引の特典。 たまに二回観たってお釣りがくる。
名優たちと「二度会う贅沢」を「時間と財布」が妨げはしない。

「二度目の映画」は退屈か? 
そんなことはない。若い時にはめったに経験し得ないことだが、
同じ映画を二度観るのは「老いて新たに知る」楽しみのひとつだ。

というのも、うれしいことに、老人は記憶能力が十分に衰えている。
「あの映画は良かった」という強烈な印象が残っているのだが、
さて頭の中でそれを具体的に再現しようとすると、記憶はまるで「おぼろ月」だ
くもりなく澄みわたっていた明月は今や霞のうち。
老人の頭の記憶装置はいつも春。 
春霞がたなびいているのだから。

お陰で二度観る幸せは、若者の想像を超える。
一回目も二回目も面白い。
いや二回目の方がいっそう面白い。 

二回目は、
既にぼやけてしまって、曖昧になった「記憶上の映像」が、
みるみる新しい「鮮明な映像」に置き換えられていく。
すばらしい! 
「そうだったのか! そうだそうだ!」納得の連続。
「枯れ木に花」が次々と咲いていく。 
朧月が霞の衣を脱ぎ捨て明月になる。

老人が同じものを重ねて楽しむことができるのは、幼児と似ている。
幼児は繰り返しが好きだ。
毎日、公園の砂場で同じ遊びをする。
就寝前にお気に入りの同じ絵本を繰り返し読んでもらう。

青少年は「老人や幼児」のようにはいかない。
同じことの繰り返しを退屈がる。
青少年は動き回り、羽ばたく「空間」が広すぎるのだ。
彼らの「時間」は忙しくせわしく流れてゆく。
だから、「同じもの」の前に立ち止まって楽しみ続けることが難しい。
まるで花畑の蝶々だ。花から花へ飛び交って舞う、じっとしていない。

青少年時代は周囲に刺激も多く、
「目新しい楽しみ」に次々と挑戦してみたくって、それを追いかけるのに夢中だ。
だから、青年が同じ映画を二度観るなんてことは、到底無理。御法度。
「やってられない」のだ!

いい映画を「二度楽しむ」という習慣は、
特に、記憶力・視力・聴力が衰え始めた私のような「老人」には、お勧めだ。
ボケに抗して「映画を観る」趣味を持続する最良の方法である。


<映画の選び方>
初めての映画を私が選ぶ方法は特別なものではない。
映画館で予告編を観て観たいと思った映画は忘れないようチラシを持ち帰る。
神戸・梅田間の駅に近い映画館の上映スケジュールをネットでチェックし、
それもホームページで予告編を観て、自分が観たいというものを選ぶ。
これは誰でもやっていることで、特異なことではない。


<TV時代に人は何故わざわざ映画館に出かけるのか?>
TVを楽しめば映画館に行かなくて済むだろうか?
映画は、TV時代になって斜陽化する運命にある、と言われたがどうだろうか?

詩人の辻井喬(=堤清二。1927〜2013)が、この問題について、
凡そ次のような趣旨のことを書いていた。 

――1.映画が「娯楽商品」を主眼に製作をしていたのではTVに敵わない。淘汰される。
――2.人間は生きている限り芸術を求めるから、映画芸術はTV時代でも生き残る。
――3.芸術は、詩情と現実批判を内包していなければならない。
そして辻井さんは、「映画芸術」という分野では、近年大映画会社よりも、
経済的に恵まれない独立プロの方が大きな成果を上げていると指摘する。

以上は、辻井さんが2001年に書いた岩波新書の中でついでに触れられていたことを
要約したものだが、その後「時代」は彼の言葉をなぞるように進んでいる。

私も辻井説に大賛成で、現実からテーマを掬い上げ、詩情があり、現実批判を含む
深みのある、美しい面白い映画に、限りない魅力を感じる。

私が今年二度観た映画で心に残ったのは、
「万引き家族」(是枝裕和監督)
「ザ・フロリダ・プロジェクト」(ショーン・ベイカー監督)だ。
いずれも鋭い現実批判を含みながら「映像芸術」としてみごとに昇華された作品だ。
また、両者とも独立プロ系のものだった。


<自由な鑑賞>
作品が完成し、公開され、作者の手を離れてしまうと、
作品は外の世界を歩きはじめる。
作品の運命は鑑賞者の手にゆだねられる。
作品中に何を見出そうと
それを起点にどんな想像をめぐらせようとも、
それは鑑賞者たちの自由だ。

観る者が作品を、感覚的、知的に深く理解し鑑賞するには、
作者の意図を知り、作品の背景を知ることが近道だ。

しかし、鑑賞者の想像が、作者が創造した「世界」を超えることはしばしば起きうる。
鑑賞者が、作品の「世界」に共感するとともに、その世界の内にあって、
さらに自由に、連想を膨らませて遊ぶ「楽しみ方」をすることから起きるのだ。
鑑賞者の想像力が、作者の意図する「世界」とは、「別世界」を作り出すこともある。
しかし、鑑賞のあり方として、それはもとより許容されていることだ。
自分の自由な「鑑賞の世界」を作り出すことは、鑑賞者の至上の楽しみなのだ。


<家族崩壊を描く映画>
前記の「万引き家族」と「フロリダ・プロジェクト」は、
「家族の崩壊」家族制度の危機を主題として採り上げている。
二つの映画が世界中で話題となったのも、その「テーマ」の選択と無縁ではない。

世界内乱傾向、止まらない経済格差、資本主義と民主主義存続の危機による
「家族の崩壊」の危機は、
21世紀が直面している「未だ解決の見えない問題」であり、
先進国を含む世界中が悩む「グローバルな問題」だといえる。

家族とは
「夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の基礎単位となる集団」であり、
家族の崩壊とは
「この共同生活体が不可抗力よって破綻し、回復する方法がない状態」だ。

「フロリダ・プロジェクト」は
定住家屋のないシングル・マザーと幼い娘の(結末を除けば)たいへん楽しい物語であり、
「万引き家族」は
血縁なき者が集まって不安定な仕事と協同常習犯的万引きで生計を賄う「疑似家族」集団の
物語だが、和気あいあい、血縁家族以上の不思議な幸せ感を漂わせている。

ストーリーを説明することは省略するが、
物語における、それぞれの「家族崩壊度」を記せば、
「フロリダ・プロジェクト」はもともと半壊。
半壊から全壊へと展開して終わる。
「万引き家族」はもともと全壊。
全壊の他人同士が寄り添って作った「疑似家族」が再び全壊する。

家族「全壊の悲劇」が生み出すものとして、特に「子どもが受ける犠牲」が痛々しい。

日本ではこれまでも、小津安二郎監督(1903〜63)、山田洋次監督(1931〜)が
「家族」を主題にした名作をいくつも世に送り出してきた。
そして両監督の時代を超えて、
今、時代の流れはなおも激しく変化し、
家族は新しい苦難に遭遇して翻弄され続ける。

今年喝采を浴びた前記の名作「万引き家族」と「フロリダ・プロジェクト」を観て、
観客たちは「家族崩壊」という問題について多くのことを考えさせられたに違いない。

たとえば、
「家族という器が、どのようにいびつな形になっていようとも、それでもなお、
これからも人類社会の「最小の基礎単位」であり続けるに違いない。」
「他国や他人の「家族崩壊」は、対岸の火災ではないのだ。」
「世界の子どもたちの「生存の危機」に対処するために、
家族崩壊の危機の進行をなんとしても食い止めるなければならない。」
「家族崩壊の傾向は社会存続の「危機」を意味している。」
「世界は智慧を集めて、社会システムを再考・再構築しなければならない。」・・と。


老いて日々鈍っていく私の頭にとっても、映画はなお「効き目のある」刺激剤だ。
夢見つつも、生きている限り、現(うつつ)に想いを馳せたいと思う。
<2018.12.24 記>

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