<風船の徘徊 10>  夙川公園を散歩する


<夙川の岸辺>
夙川ぞいの道は、桜の名所として知られる。春の到来とともに花見客で賑わう。
普段は、散歩道として、子どもの遊び場として利用する人が多い。

特に苦楽園口橋から阪急夙川駅までの約1kmの区域が快適だ。

堤には常緑の松が中空に聳え、頭上近くに桜の枝が覆いかぶさって、
トンネルの道を形作る。
両岸の松や桜の樹が川の上に枝を伸ばし合い流れの上に緑の覆いを作る。

阪急夙川駅のホ−ムが川を跨ぐ橋の上にあるので、
初めて来た人はホームから、緑の松や春ならいちめんの桜を見て驚くだろう。

小鳥の囀り、川のせせらぎの音が聞こえ、鷺、かいつむり類も川面に遊ぶ。
苦楽園口橋と夙川駅の間に、二つの石橋(大井手橋、こほろぎ橋)が
架かっていて川の景観に趣を添える。
そして遠く、堤の道から六甲の山脈が見える。
松の樹間から見える夕暮れの六甲の山々は赤い空を背景に
墨絵のようにシルエットを浮かび上がらせる。

桜並木道と土手の松を主にした豊かな植栽が両岸から川の流れを挟んで、
南北に長く伸びる緑地が西宮市民公園となっている。
広場にはブランコ、シーソー、滑り台、鉄棒、ベンチが置かれていて、
土日・祝日は、遊び戯れる親子連れで賑わう。
西宮市の公園管理も行き届いている。

夙川沿いの川東の道は上中下三段の道に分かれるが、
石段で結ばれ相互に往き来できる。

中段の道は歩いて橋の下を潜り抜けられる位置にあり、
桜の並木道・広場・遊び場がある。

下段の道は水際に位置する。
石やコンクリートで作られた道で、
飛び石を伝って流れの向こう岸とも往き来できる。
雨の日に川が増水すると、石造りの道は水面下に沈む。

上段の道は土手の最上部で、川沿いを走る自動車道と同平面に位置する。
車道との間に柵が設けられ、車は西側に鬱蒼と茂る長い松並木を見ながら走る。

上中下三段の道は地形の関係で途切れ途切れになっているのだが、
この川東の上中下三つの道と苦楽園口橋を含む「三つの石橋」と、
川西の岸辺の三つの道を組み合わせてて、コースの取り方を替えると、
地形や景観は変化に富み、散歩する者の目を飽きさせることはない。


<散歩>
夙川公園はどの道も散歩に好適だ。 散歩者は多い。

ところで一体「散歩」って何だろう?

明治生まれの「植物学者」北村四郎さんがかつて次のように書いた。

「散歩とはあてもなく歩くことと定義されている。 その通りであるが、
結果としては、からだの具合がよく、腹が減り、食事がおいしく、正常に排泄し、
夜はよく寝られる。頭が休まってすっきりして、正常な考えとなる。
私はそんなあてがあって散歩するのである。」(北村四郎選集1 落葉)と。

散歩は、「行先に用事があって」場所を移動する歩行ではない。
その意味では今も昔も散歩とは「あてもなく歩く」ことだ。

しかし、北村さんの散歩は「あて」(=目的)がある、という。
上記のように、散歩には結果的に「心身に良好な影響」がもたらすが、
北村さんは、自分の散歩はその良い影響を当てにし目的とした散歩だ、と言う。

当時の世間の人々の意識では
「散歩」は(仕事もせず、退屈まぎれに、用事もないのにする)
「贅沢なぶらぶら歩き」というの大方の認識だったのだろう。
北村さんは「散歩」には心身に有益なたくさんの効用が伴うことを並べ、
散歩はとてもいいものですよ、大いに散歩しましょう、と言っている。
ソフトな語り口の「散歩のすすめ」である。

ところで、今ではどうだろう?
現在、人は歩くことによって身体に良好な結果を求めるという
強烈な「目的意識」を以て散歩をする。

何かしらいい結果が伴うらしい、というような悠長な話ではない。
散歩はやめてはいけない、やめるに止められない、切実なものに変質する。

病的な肥満防止、痩身の身体作り、アンチエイジング、リハビリ等、
総じて肉体の衰弱に抗する方策として、強い目的意識をもって歩く。
だから、速足の散歩やジョギングが日課となり、
強迫観念をも伴うものにさえなっている。

一般に運動不足に悩む人が増える「今の時代」に、
アスレティッククラブが流行るのはもっともだ。
しかし、アスレティッククラブは、散歩の「運動性の機能」を代替しうるも、
機台の上をひたすら歩く「単調さ・退屈さ」の辛抱という、
ストレスが伴うのを避けえない。

植田さんが「頭が休まってすっきりして、正常な考えとなる。」という
精神上の効能は期待しうべくもない。
「すっきりして、正常な・・」とは、散歩時の風景の変化に目を驚かせ、
気分を新鮮することによる、こころの浄化を含む意であることは明らかだ。

散歩について、かの「植物学者が生きた時代」と「現今の時代」との間に、
散歩を求める「動機と意識」の深刻さの点で顕著な差が生じている。

この意識の変化は、日本列島における
「田園地帯の喪失」と「都市化現象の拡大」と深く結びついているに違いない。

一家総出で田畑の仕事をした「農業人口」が圧倒的に多かった時代を
思い起こしてみると、
当時の人々にとって散歩なんてまったく不要のものだったことが容易に分かる。
仕事をするとは、自ずと日々「田園を長距離を歩く」ことだったのだ。
人々にとって、運動不足による病気の心配はなかった。

散歩の必要とその切実さの観念が、
「産業構造の変化」とともに変わるのは当然だった。

ところで、「散歩という言葉」は、
日本ではいつごろから広く使われるようになったのか?
どうやら広まったのは西洋文明が導入された明治維新以後のことらしい。

江戸時代の「士農工商の日常」は散歩と無縁だったのだろう。
江戸で旅は流行したが、散歩が流行ることはなかった。

以前は「逍遥」という語が「散歩」の観念に「近い」もの、
あるいは、「代わる」語だったと言われる。

学者や文人の足弱族ではなく、一般人にも散歩が必要だ、と
特別切実に意識されるようになるのは、モータリゼイションの時代を経て、
最終的には、やはり「長寿高齢社会」を迎える時代になってからのことだろう。

市民公園は、大人が好んで散歩し、同じ場所で子どもらが遊ぶ。
大人と共に在り、大人の目が常に届いているので、
幼児たちにとって、「安全な遊び場」となる。
その点で単なる「児童公園」よりも、
遊ぶ「子ども」のそばを「大人」が散歩できる公園が望ましい。

大人たちを散歩にいざなう公園は、
ややもすれば家に閉じこもりがちな独居老人をも「日の当たる場所」に連れだし、
こどもを安全に遊ばせ、健全に育てるのに役立つ。
夙川市民公園はこの点でも理想的だ。


<桜>
さくらは春だけでなく、夏、秋も美しい。

日本人は春を待つのと同じ気持ちで桜の開花を待つ。
満開のさくらを愛でる日、「春たけなわの歓びを感じる日」を待ちに待つ。
だが、花見の時期は2,3日あるいは4,5日であっけなく過ぎ去る。

花が散ると同時に櫻はすぐ若葉を出し、やがて「葉桜」の季節に入る。
櫻並木は葉をうっそうと茂らせ緑のトンネルを作る。
真夏でさえも、朝夕は「葉桜の緑陰」が人を呼ぶ。
葉桜の季節は長く、「晩春から晩秋」まで続く。


晩秋から冬に向かって桜はある日一斉に紅葉する。
黄・紫・茶も微妙に入り混じる燃えるような赤色の葉が落葉し並木道を彩る。
風と共に公園の道をあちこち転げまわって落ち葉が遊ぶ。
この時期も短い。
やがて空っ風が吹く。冬になる。

冬期の櫻は「裸の枝」がいつ「花芽」を兆すかを覗う楽しみを残す。
厳寒の最中桜は、枝の樹皮を突き上げ微かな突起を作るようにして芽ぐむ。
最初は枝の樹皮の凹凸に過ぎないように見えるが、日が経つにつれ、
やがて「芽ぐみ」が人の目にもはっきり判別できるようになる。
春までの道のりはまだまだ遠いが、それでも春の兆しを見る想いがする。

櫻は手を伸ばせば直ぐ届くような位置に枝をはり、そこに花をつけ、葉を茂らすので、
その下で宴を張るのも、通り抜けるのも楽しく、四季を通じて親しみやすい。

櫻は全国の都市に植栽される殆どが、ソメイヨシノ・染井吉野と呼ばれる品種だ。
生育がよく、花もみごとだが、
樹勢が40〜50年で弱まり、いたみやすいのが欠点だとされる。
そのため「桜の名所」は管理がたいへんなのだ。

今年の夏は異常なほどに颱風が多く全国的に被害が酷かった。
これも温暖化のせいだとすれば、来年、再来年もが颱風多発が心配される。

地球規模で、大規模な山火事、大洪水、南の島々の水没の危機、北極の環境変化、
水の都ベニスの浸水多発化の傾向など温暖化の影響が顕著になってきた。

夙川公園も今年松や桜の樹が颱風によってひどい被害を受けた。
大量の樹木の葉が吹き散らされ、枝がもぎ取られ、幹が折れ、
中空に枝が折れたままぶら下がり、
地上にはへし折られた枝葉の厖大な残骸が積み重なり散乱した。
翌朝まだ晴れやらぬ空の下で市の公園課の復旧作業が始まるのを目にした。

今年の秋は「桜の紅葉」がまったく駄目だった。
颱風の風圧で木が痛めつけられたせいか、
颱風が含む塩分の影響か、
颱風で樹勢が衰弱した木が病原体感染や虫害を受けたからか、
葉の大半が「紅葉する前、落葉する前」に枝についたまま枯死していた。
あの燃えるようなさくら独特の美しい色の紅葉はついに見られなかった。
現在、「治療中」の表示札が掛かっている桜の樹が多い。

来年東風が吹けば、春の女神たちがやって来て
また立派な花を咲かせてくれるだろうか?


<私の夙川散歩>
私は年中、体調・時間・天候が許せば、夙川沿いを歩く。
今は杖を突きながら歩く。

愛犬家同士が犬の散歩のついでに、公園で群らがって「川端会議」に興じている。
犬はその傍らで犬同士で遊ぶ。

若い、母さん、父さんが
幼児の滑り台、シーソー、ブランコ「遊び」を助けている。

桜は根元を踏まれると樹が痛むので、
樹の根元には保護柵が設けられ、 柵中に人が踏み込まれないように、
草花が植えられる。桜の根元に草花が咲く。
(かつてさくらの花の時期に賑わった出店も、今は禁止されている。)

桜の根元の柵内に、あじさい・紫陽花がたくさん植えられた。
水際のせいか、良好な管理のせいか、
紫陽花は既に桜の枝に届くほど背が高く育っている。
さくらの花期が終わると続いて、あじさいの花が競って咲く。
紫陽花は花期が長い。 紫陽花がもっと増えて、
夙川が「桜と紫陽花の名所」にもなってほしいと願う。


晩春から夏にかけての散歩では、
松の樹幹の間から、暮れ泥む六甲の山脈を眺める。
川の流れが土手の影の内に入り、水が微かな光を反射する。
あたりはしだいに薄闇に包まれ、山々は影絵のように墨色になる。

西の空だけが明るく赤く染まって山の端が美しい。
西方浄土なんて考えが出てきたのも
この夕空の美しさと無縁でないだろうと思ったりする。

大寒期に、たまたま雪などが降るとやはり「中の道」に降りて見たくなる。


私の夙川散歩は上に述べたように、
まずは「目」を楽しませる遊びであり、それが第一の「目当て」だ。
さらに身体機能リハビリの効用が伴うのは、いわば「鴨葱・二兎」を得る幸せだ。

3本足でも、
公園であれ、街であれ、
あてどなく歩きたい、と私は願う。

あてどころなく歩くからには、
散歩も徘徊も、「まったく同じ」だ。
本質的に変わらない、と私は考える。

「いや違うだろう」と人は言うかもしれない。
「呆け老人になると、散歩が徘徊に変わる」のだと。

そのような断定は偏見だ、と私は思う。
人生において40歳にもなれば、呆けは自ずと始まる。
始めは遠慮がちにそっと、気付かれずに進む。
年齢が進むにつれ、60歳には60歳の呆けが自覚され、
80歳になると80歳の呆けが自覚される。

八十路になって確信するようになったが、
人は日々自らの呆けを訂正しながら、長い人生を生きてきたのだ。
人は呆けとは無縁には生きられない、これまでもずうっと付き合ってきたし、
これからも付き合っていくのだ、と。

だから、
誰にとっても(認知症であってもなくとも)「散歩」と「徘徊」は同一のものだ、
どう表現しようと「同じ行為」であると考えるのが正しい、と私は思う。

今「徘徊」は、私にとってかけがえのない「独り遊び」であり、
日常を生きる楽しみのひとつとだ、と言うことができる。

人がみずから好む場所を自由に歩くことは、
老人の徘徊であれ、
僅かな距離にすぎない「幼児のよちよち歩き」であれ、
若い恋人同士の人目を忍ぶ「そぞろ歩き」であれ、
その自由意志が十分尊重されるべきである。

傍目には無価値にみえる「当てのない歩き」が、
老人の健康、幼児の成長、若者の恋の成り立ちに役立ち、
そのそれぞれが人に日々を生きる幸せを感じさせる点において、
たいへん貴重だということを、忘れないでおきたいと思う。
<2018.12.03. 記>

 

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