「ヴォイスの客」はらすすのジャズよもやま話
連載第95回 Tommy Flanaganと堺筋本町「オーバーシーズ」

 Tommy Flanaganは僕の最も好きなジャズピアニストの1人です。彼のリーダー作の中
で最高傑作と呼べるのは、ベースのWilber LittleとドラムスのElvin Jonesを従えて、
1957年8月にスウェーデンで吹き込まれた"Overseas"である事は衆目の一致するところ
でしょう。実際、昨年5月にスイングジャーナル社から発売された「ジャズピアノ百科
事典」を見ても、ジャズピアノアルバム傑作選1000の「ビバップ・ハードバップ編」
というコーナー中で、Bud Powellの"The Amazing Bud Powell vol.5"、Thelonious
Monkの"Brilliant Corners"・"Monk`s Music"、Oscar Petersonの"The Trio"・"We
Get Requests"と共に、最大スペースで紹介されたアルバム6枚のうちの1枚に選ばれて
いました。
 この作品はまた、様々なジャケットデザインが存在している事で知られており、僕
の手持ちのものだけでも、左写真の上からスウェーデンMetronome盤、アメリ
カPrestige盤、スウェーデンMetronome7インチオリジナルEP盤との3種類の異なったジャ
ケットのレコードがあります。アメリカPrestige盤は、"Overseas"のseasとC`sとを引っ
かけて、数多のCという文字の上に「Tommy Flanagan Over」を冠した優れたデザイン
のジャケットです。その上、ミュージシャン達が並んだ写真を配したジャケットのア
メリカPrestige再発盤もありますし、近年日本のディスクユニオンはスウェーデ
ンMetronome7インチオリジナルEP盤5枚組とのマニアックな復刻盤をも発売しています。
 僕の敬愛する村上春樹氏の著作である「東京奇譚集」中に収められた "偶然の旅
人"という作品では、Tommy Flanagan に関するとても興味深い記述がなされています。
その作品によると、1993〜1995年にマサチューセッツ州ケンブリッジに住んでいた春
樹氏は、地元の「レガッタ・バー」というジャズクラブに頻繁に通われていたとの事
です。某日そのお店にTommy Flanagan Trioが出演したのですが、ステージが終わりに
近づくにつれて、春樹氏はFlanaganに対して『バルバドス』および『スター・クロス
ト・ラヴァーズ』の2曲を演奏して欲しいとの気持ちが強くなるのを感じたそうです。
すると驚く事なかれ、彼の念じる気持ちが通じたのか、Flanaganは決して有名曲では
ないその2曲を立て続けに演奏してくれたという奇跡のような話なのです。それにして
も、我々ジャズファンの心の琴線に触れるような、かくなるマニアックなお話を披露
してくれる作家は、どうあがいても村上春樹氏以外には考えられないですよね。
 Tommy Flanaganはまた、弟子をとらないという事で有名でした。しかしながら、唯
一の例外とも言える方が日本の、しかも大阪に在住しておられるのです。その方、寺
井尚之さんは1952年のお生まれですので現在57歳。1975年にElla Fitzgeraldのツアー
で来日していたTommy Flanaganに対して、当時彼の大ファンのピアニストであった若
き寺井氏が面会して弟子入りを志願されたのですが、Tommyには「No. 私は弟子を取ら
ない主義なのです」とすげなく断られたそうです。しかし、寺井さんがTommy
Flanaganのリーダー及び参加アルバム350枚の演奏のコピー譜など研究の成果を見せた
ところ、「テープを送るように」との指示を受け、やがて弟子として認められて以
来2001年にTommy Flanaganが他界するまで、親父と息子のような交流を続けてこられ
たとの事です。
 寺井氏は1979年に大阪は堺筋本町にその名も「オーバーシーズ」という名前のジャ
ズライブハウスを開店されて、以降長きにわたって自ら同店のハウスピアニストとし
てTommy Flanaganスタイルのデトロイトバップジャズの演奏を続けておられます。僕
は以前から寺井さんのCDを何枚も所有して演奏を耳にはしていたのですが、"一度この
店を訪問して生の寺井さんの演奏を聴いてみたい"と熱望するものの、なかなかその機
会を得る事が出来ませんでした。しかし、今年のお盆休みについにその願いが実現し、
堺筋本町「オーバーシーズ」を訪れる事が果たせたのでした。当日のライブは、かね
てから旧知のベーシストである鷲見和広さんとのデュエットによる演奏でした。初め
て生で耳にする寺井さんのピアノプレイは奇を衒うような激しい抑揚はなく、テーマ
演奏に続いて美しいアドリブフレーズが淡々と続くようなスタイルですが、静かにじ
んわりと感動が心に染み入ってくる素晴らしいライブでした。終了後には、本日演奏
のお2人によって吹き込まれた"Echoes"(Flanagania Records)というCDジャケットにサ
インを頂戴しました。
 寺井さんが自らの店を飛び出してライブ活動をされる事がほとんど無い事も影響し
て、この素晴らしいピアニストの存在は意外に広くは知られていません。しかし、我々
関西のジャズファンにとっては、Tommy Flanaganの唯一の弟子である寺井尚之さんと
堺筋本町「オーバーシーズ」というお店の存在は、世界に自負すべき"関西ジャズ界の
誇り"とも呼べるのものだと僕は確信しつつ帰途についたのでした。
 ではまた来月、急にめっきり秋めいてきましたが、皆様どうぞ体調を崩さぬように
気をつけてお過ごし下さい。
                      (2009年10月10日 記)