「ヴォイスの客」はらすすのジャズよもやま話
連載第83回 “中央線ジャズ”を聴く

 今年の春頃に“中央線ジャズ 決定盤101”(音楽出版社)という本が発行され、僕も早
速購入して読んでみました。“中央線ジャズ”とは余り耳慣れない言葉かも知れません
が、新宿「ピットイン」や西荻窪「アケタの店」などを代表とする主に中央線の新宿
から八王子までの間のライブハウスで多く演奏されてきたジャズを指し、その演奏ス
タイルはややフリーがかったプレイが多く、いわゆるコマーシャリズムを排したもの
が主体であると説明するとご理解頂けますでしょうか?明田川荘之・山下洋輔・坂田明・
阿部薫・中村誠一・古澤良治郎・本田竹廣・森山威男・梅津和時などといった方々が
代表的な“中央線ジャズ”派のミュージシャンとして挙げられますが、本文中では“中央
線ジャズ”を評して、「焼鳥屋の煙立ちこめる濃厚な臭気の染みついたジャズ」(本文
中115頁)との巧みな表現がなされています。
 この本の中では、1970年録音の高柳昌行さんの作品から、2007年録音の小宅珠美さ
んの作品まで101作のアルバムが時代順に紹介されていますが、学生運動の余韻が残り、
若者達がまだまだ熱かった1970年代がやはり最も“中央線ジャズ”に相応しい時代だっ
たのではないでしょうか?僕自身は根っからのハードバップ好きですが、ではフリーキー
な“中央線ジャズ”とは相容れないかというと決してそういう訳ではなく、大学生の頃
には山下洋輔トリオの“キアズマ”等をよくジャズ喫茶でリクエストし、フリーなスタ
イルの中に突然現れる美しい旋律を耳にした瞬間、余りの快感に身もだえしたりした
ものでした(ちょっと変態っぽいか?)。そんな次第で、今回はこの本の中で挙げられて
いるミュージシャンのうちで特に僕の好きな方々を幾人か紹介する事にしてみましょ
う。
 “中央線ジャズ”派ミュージシャンの中で、僕のお気に入りとしてまず真っ先に名前
が挙がるのがピアニストの板橋文夫さんです。板橋さんのピアノプレイは、鍵盤の上
を音の洪水が跳びはねる如きスタイルですが、その奏でるメロディは余りに美しく、
僕はいつも魅了されてしまいます。僕は板橋さんのピアノが大好きで、これまでに数
え切れないくらい彼のライブを聴いてきました。その中で最も印象に残っているライ
ブは?と考えると、たまたま横浜出張の際に、本コラムの第15回でも紹介した関内のジャ
ズクラブ「エアジン」で聴いたライブが思い起こされます。「エアジン」の店内は程
良く薄汚れていて、まるで昭和の時代にタイムスリップしたかのような錯覚を感じて
しまいますが、板橋さんのピアノを聴くシチュエーションとしては最高にマッチした
場であり、この時のライブの熱狂は僕に忘れがたい思い出を残してくれました。僕の
所有している数枚の板橋さん名義のCDの中から、ここでは初期の作品である“Rise
and Shine”および “Watarase”を掲げてみましょう。前者は、板橋さん26歳時に西荻窪
「アケタの店」で録音されたトリオ編成での彼の最初のリーダー作品であり、あたか
も汗が飛び散ってくるようなエネルギッシュな若さ溢れる演奏が収められています。
一方後者は、板橋さんの最初のピアノソロアルバムです。板橋さんは哀愁に満ちたメ
ロディーメーカーとしても良く知られていますが、この作品には彼の代表作である“渡
良瀬”と“グッドバイ”が収録されており、その事がこのアルバムの魅力をなお一層引き
立てているのは間違いありません。
 もう1人、僕の大好きなピアニストとして、渋谷毅さんの名前を挙げさせて頂きます。
渋谷さんのピアノプレイはフリーと呼ぶにはやや異質であり、むしろ朴訥とした独自
のスタイルですが、何とも表現し難い独特の深い味わいを有しています。カルテット
による“Essential Ellington”や森山威男さんとのデュエットによる“しーそー”は共に、
スイングジャーナル誌の選定するそれぞれ1999年および2001年の日本ジャズ賞を獲得
した作品ですが、ここでは板橋さんと同様に初期の作品である、トリオによ
る“Dream”およびピアノソロによる“渋やん”を紹介してみます。渋谷さんの演奏スタイ
ルは決して音数の多い方ではないのですが、フリー系のミュージシャンとの相性がき
わめて良好であり、僕の好きなアルトサックス奏者である林栄一さんの“Monk`s
Mood”という作品においても抜群のコンビネーションをもって共演を果たしておられま
す。林さんも山下洋輔さんなどとの共演で知られるフリー系のプレイヤーの方ですが、
その音色は常に美しく、スタンダード曲を集めた“Mona Lisa”という作品を聴いた際な
どには、それはもう感涙ものです。
 ここで思い返してみると、先程紹介した板橋さんの“Rise and Shine”および渋谷さ
んの“Dream”は、1975年という時代に吹き込まれた演奏であるという共通点を有してい
ます。1975年というと僕がちょうど20歳の頃であり、僕はたまたま京都の大学に進学
しましたが、もし東京の大学に進んでおれば、恐らくもっともっと“中央線ジャズ”に
のめり込んでいた事だったでしょう。従って、すっかり年をとってしまった今でもな
お、これらの作品を耳にすると、僕にとっても“中央線ジャズ”にとってもジャズとい
う音楽が最も熱かった1975年という時代の幾多の思い出がまるで走馬燈のように蘇っ
てくるのを感じて、僕はたまらない懐かしさを覚えてしまうのです。
 ではまた来月、そろそろすっかり秋めいてきましたが、皆様どうぞこの心地良い季
節を有意義にお過ごし下さい。
                      (2008年10月10日 記)