「ヴォイスの客」はらすすのジャズよもやま話
連載第76回 Prestige廉価盤の思い出

 本コラム第8回でも述べましたが、僕がジャズを聴きだしたのは1972年の始め頃、
すなわち高校1年生の3学期の事でした。その後直ちにジャズにのめり込む次第とな
り、スイングジャーナル誌は1972年の5月号から買い始めて、以降35年以上の間1册
も抜ける事なくすべてが我が家の本棚に収められています。ジャズを聴き始めた当初
はしがない高校生の身分であり、僕は母親から頂戴する5000円のお小遣いで1ヶ月間
の生活をやりくりしていました。ところが、当時でもレコードの価格は通常2千円以
上と、現在の新譜CDの値段とそれ程大差なかったため、欲しいレコードはそれこそ山
のようにあるものの、僕にとっては月に1枚買うのが関の山といった状態でした。し
かし、僕がまだジャズ超初心者であった1972年9月に、ビクター音楽産業株式会社は
ジャズファン達の喝采を浴びるような大英断を打ち出したのでした。それは、ハード
バップジャズの主要レーベルであるPrestigeの作品のうちで少し渋めのレコード20枚
をまとめて、1枚1100円との超廉価価格での発売に踏み切るとの企画だったのです。
左は往時のスイングジャーナル誌に掲載されたその20枚のレコードの広告写真ですが、
その頃の僕にはどの1枚をとってもジャケットすら見た事がない作品ばかりであり、
すべてのレコードのジャケットから漂ってくる1950年代のアメリカの雰囲気に大いに
魅了されたものでした。
 スイングジャーナル誌では、この企画を特集した「Prestige Jazz Book」という小
冊子を1972年10月号の別冊付録として添えていましたが、僕はこの冊子を何度も繰り
返して飽きる事なく読み耽り、Prestigeレーベルを中心とした1950年代のアメリカ東
海岸でのジャズ事情を学ぶ事となりました。中でも特に僕の興味を惹いたのは、当時
の編集長であった児山紀芳さんがピアニストのMal Waidronに対して行なったインタ
ビューをまとめた「マル・ウォルドロンの古き良き時代」との特集記事でした。この
中から、当時の僕の心を捉えた記事の箇所を幾つか引用してみましょう。“1950年代
後半のいわゆるファンキーとかハードバップと呼ばれているジャズのもつあの生命力
の背景には、社会的・経済的な差別に強い不満を持っていた黒人ミュージシャンの姿
が隠されているんだな。くどいようだけど、空腹を満たそうとして闘われる闘いほど
強いものはないからね。”、“ダグ・ワトキンスやアート・テイラーと過ごしたプレ
スティッジ時代、楽しくおかしい出来事も沢山あった。中でもしょっちゅう一緒になっ
たアルト・サックスのジャッキー・マクリーンの事は忘れられないなあ。実際彼みた
いなオドケの好きなミュージシャンが今になって真面目な大学の音楽講師になってい
るなんて考えられないよ。あいつが若者に教えているなんて本当かなあ。”、“今に
して思えば、あの頃は30才そこそこ。自分でも何とか可能性を見つけようと一生懸命
だたし、無我夢中だった。ボクの古き良き時代とでもいうのかな。”…。こんな文章
を読むと、当時の黒人ミュージシャン達が差別を受けながらも屈する事なく、若さを
バネにして作り上げた音楽があのハードバップジャズなんだという事がよく解るよう
に思えてくるのです。
 発売に際して、僕は散々考え抜いた挙げ句、“Thelonious Monk Trio”・“Miles
Davis & Milt Jacson”・“Mclean`s Scene/Jackie Mclean”・“The New York
Scene/George Wallington”の4枚を選んで購入し、何度も繰り返してこれらのレコー
ドを聴いたのでした。とりわけ気に入ったのがGeorge Wallingtonのレコードであり、
“The New York Scene”のA面の1曲目に収められている“In Salah”という曲など
は、当時ほとんどアドリブまでもを空で口ずさめる程になっていました。
 これらのレコードが発売されたのは、本コラム第8回で紹介したChick Coreaによ
るカモメのReturn to Foreverの爆発的な大ヒットの直後であり、時代はまさにフュー
ジョンジャズ全盛期に差し掛かるところでした。だけど、その後の僕が一貫して“ハー
ドバップ命”の健全な(?)ジャズファンの道を歩んでこられたのは、この時期
にPrestige廉価盤が発売された影響が大きかったように思います。それと共に、これ
らの作品が発売された1972年9月には僕は高校2年生の2学期に達しており、大学受
験勉強の準備を始めないといけないとのプレッシャーをそろそろ感じ始めている時期
でもありました。そのため、これらのレコードは今なお僕に、多感だった高校生時代
の様々な思い出を蘇らせてくれるとの付加的な価値を持ったものでもあるというワケ
なのです。
 ではまた来月、長かった冬の終わりが近づき、ようやく春の息吹きが感じられるよ
うになってきましたが、皆様どうぞ春の感触を大いにお楽しみ下さい。
                     (2008年3月10日 記)