「ヴォイスの客」はらすすのジャズよもやま話
連載第64回 Hank Mobleyの「Soul Station」

 最近年のせいかすっかり物覚えが悪くなってきました。僕が最もそのような事を痛
感するのはジャズライブを聴きに行った時であり、“あれ〜、この曲は絶対知ってい
る曲なのに、さて何ていうタイトルの曲だったっけ”と悩んでしまうとの事態が特に
ここ2〜3年来増えつつあるのです。先日も、いつものように金曜日の夜に三ノ宮の
ジャズバー「グッドマン」に出向き、竹下清志トリオによる演奏を楽しんでいました。
ところが、ピアノの竹下さんが魅惑的なテーマの曲を奏でだされた途端に、僕はまた
もや“あ〜、この曲は何度も聴いて絶対知ってるのに。誰のどのレコードに収録され
ている曲だったかな…。”との状態に陥ってしまいました。そうなるともうその事が
気になって気になって、とても演奏を楽しむどころではなくなってしまいます。その
セットが終わるや否や直ちに竹下さんの側に駆け寄って曲名を尋ねたところ、“ああ、
あれはHank Mobleyの「Soul Station」というレコードに入っている「This I Dig of
You」という曲ですよ”と教えて頂きました。“あ〜、そうだったんだ”と僕は直ち
に納得、ようやく胸のつっかえが取れた気分になりました。その曲というのは、かつ
て繰り返し何度も聴いたBlue Noteの4031番、B級テナーなどと呼ばれながら現在なお
多くのジャズファン達から愛され続けているHank Mobleyの最高傑作と称される
「Soul Station」の中の1曲だったのでした。
 Hank Mobleyは1930年アメリカはジョージア州生まれのテナーサックス奏者です。
1950年代から1960年代初頭にかけては恐らく最も多忙なジャズミュージシャンの1人
であり、 PrestigeおよびBlue Noteといった人気レーベルから数多くのリーダーアル
バムを発表しています。ところが、その華やかな人生の前半とは対称的に、彼の人生
の後半は悲惨を極めたものであった様です。根っからの典型的なハードバップスタイ
ルの奏者であったが故に、彼は1960年代後半からのモードジャズへの流れからは完全
に取り残され、いつしか忘れ去られた存在となってしまいました。1970年代には、
“彼がフィラデルフィアで乞食をしているのを見た”などという真しやかな噂も流れ
ていたとの事です。そして、1985年に往年のBlue Noteのスタープレーヤー達が一堂
に会して催された「One Night with Blue Note」の際にも、彼は姿を現わしたものの
その体は既に演奏する事もままならない程ズタズタであり、翌1986年に55年間の生涯
をひっそりと終えてしまいました。
 Hank Mobleyの「Soul Station」を聴くと、僕は本コラムの第6回でも触れたテナー
サックスの今津
雅仁さんを思い出してしまいます。と言うのは、1988年に発売された「ジャズ批評62
号 私の好きな1枚のジャズレコード」という特集号の中で、今津さんがこのレコー
ドに対する熱い思いを述べておられ、その事がずっと僕の記憶に残っているためです。
プロになって2年目の、当時まだ無名のジャズミュージシャンであった今津さんが、
雨宿り目的に飛び込んだ神戸のジャズ喫茶でたまたまかかっていたこのレコードを聴
いて感激し、客が自分1人だったのを良い事にマスターに頼み込んでA面B面を交互に
繰り返して何度も聴かせてもらったとの内容の文章なのですが、その文末で今津さん
は“あの大雨の日に初めて聴いたこのレコードには色々な意味で本当に世話になった
し、まだまだ多くの思い出が数えきれないほどあるが、僕が何かに行き詰まった時、
いつもモブレーはあの暖かい音で「大丈夫だよ。頑張ってさえいれば、いつかきっと
いいことがあるから。」と僕に囁いてくれていたように思う。今では家でも殆ど聴か
なくなってしまったが、たまにジャズ喫茶などでこのレコードの1曲目「リメンバー」
が流れてきたりすると、「やっぱりジャズ演ってて良かったなあ。」と、今でもしみ
じみ思う。”と結んでおられます。そして実際、今津さんは彼のメジャーデビュー作
である「MASATO」(Fun House)の中で“Dear Hank”とのタイトルのHank Mobleyに捧
げたオリジナル曲を収録しておられます。
 このように、決して恵まれたとは言えない生涯を送ったHank Mobleyですが、その
ような知識を踏まえて改めて彼のレコードを聴くと、何と優しく暖かさに満ち溢れた
音楽なんだろうと痛感してしまいます。本当に、どうしてジャズってこんなに素敵な
のでしょうか。
 ではまた来月、暖かくなったり寒くなったりと妙な気候ですが、皆様どうぞお元気
でお過ごし下さい。
                            (2007年3月10日 記)