「ヴォイスの客」はらすすのジャズよもやま話
連載第8回 思い出の1972年・夏
 
 人には誰にも心に秘めた“記憶に残る夏”があります。夏は多くの恋や心に残る出
来事を生み出してくれます。僕の場合には、ジャズ絡みでのこれまでの人生で最も心
に残る夏は、ジャズを聴き出して初めての夏であった1972年(昭和47年)だったように
思います。この夏の僕の生活は、大学受験をめざして当時神戸の熊内にあった予備校
の夏期講習に通い、帰りには三ノ宮や元町のジャズ喫茶に立ち寄るといった毎日でし
た。ジャズに目覚めたばかりの高校生であった僕にとって、この夏にはジャズにまつ
わる2つの大きな出来事がありました。それは、@Chick Coreaの出演した合歓ジャ
ズイン、そしてAカモメのReturn To Foreverの大旋風の2つでした。@については、
オールナイトの合歓ジャズインへ行こうと友達と計画していたのが親や学校の知れる
ところとなり、父兄の反対で計画が頓挫してしまいました。どうしても行きたかった
僕も泣く泣くあきらめざるを得なかったのですが、当日合歓からの生中継のラジオ放
送があり、夜を徹して釘付けでそれを聴いていました。ところが当日はあいにく台風
後の大雨で、予定されていた演奏の一部が中止になってしまいました。しかし、メイ
ンのChick Coreaのピアノソロ演奏になると不思議な事に雨は小雨となり、Chick
Coreaのピアノが周囲で鳴く雨ガエルとの大合奏となり、その結果とてつもなく感動
的な演奏が生み出されたのです。僕は、ラジオから流れてくる演奏に対する感動と演
奏の現場に行けなかったという口惜しさとで涙が溢れだし、どうしようもなくなって
しまったという忘れ難い思い出があります。左の写真はこの年の合歓ジャズインのチ
ラシですが、30年経った現在でも大切に保存しています。一方、Aに関しては、先日
ふと、あの夏からもう30年も経ったんだと気付き、その感慨を小文にしたためてスイ
ングジャーナルの読者通信に投稿したところ7月号に掲載されました(僕の場合、ジャ
ズ絡みで何か感動的な出来事があると、すぐにスイングジャーナルへ投稿するという
悪癖?があるようです)。但し、ボリュームの関係か原文よりかなり短く削って掲載
されましたので、僕が送った原文のままここに転載する事で今月の原稿に代えさせて
頂きます。

『                カモメのRTFから3o年
 1972年冬、僕は高校1年生だった。風が肌に冷たいある土曜日の午後、級友に誘わ
れて学校の帰りに初めてジャズ喫茶なる処へ足を踏み入れた。当時のジャズ喫茶では
コルトレーンのインパルス後期盤やエレクトリックマイルス等が主流であり、僕はと
言うと決してこのような音楽に魅せられた訳ではなかったものの、ほろ苦いコーヒー
の香り・薄暗い空間にゆらめく紫煙・長髪ジーンズ姿の客が読みふける「朝日ジャー
ナル」や「ユリイカ」といった雑誌等、ジャズ喫茶は大人の世界に興味津々の高校生
の好奇心をくすぐるには十分すぎる場所であった。こうして、以後ジャズ喫茶に入り
浸るようになったが、大音量で店内に響き渡る音楽をわかったかのようなポーズで聴
き入る事にはなかなか馴染めず、僕にとっていささか苦痛ですらあるという状態が続
いていた。
 しかし、季節が変わり1972年の夏になると、たった1枚のレコードの登場によって
ジャズ喫茶の状況は一変した。そう、「Chick Corea Return to Forever」通称カ
モメのRTFだ。その夏、北から南まで日本中のジャズ喫茶を1羽のカモメが飛び回っ
たといっても決して大げさではない事は、当時をリアルタイムで経験された方ならば
わかって頂ける事だろう。ジャズ喫茶で少し長居をして2〜3時間でもねばろうもの
なら少なくとも1度、下手をすると2度はカモメのRTFそれも決まってB面ばかりを聴
かされるハメになった。このレコードがかかると、カリブの風が運んできた様な爽や
かなメロディラインに誘われて、それまで苦々しい表情で腕を組んで目を閉じうつむ
いていた客たちは、一転して顔を上げてにこやかに音楽に合わせてリズムを取るとい
う次第だった。僕も、その後好みのジャズはハードバップやピアノトリオ等に変わっ
ていったものの、以降今日までずっとジャズと関わりながら生きてこられたのはある
意味でこのレコードのお蔭かも知れないと思っている。
 そして時は流れ、2002年。まもなく僕達はあの“カモメの夏”から30回目の夏を迎
えようとしている。僕もすっかり歳を取ってしまったが、今でもカモメのRTFのレコー
ドに針を下ろすと、瞬時にしてまるで魔術にかかったかのように17才の高校生だった
“あの夏”に戻る事ができるのだ。』

 だけど、余り何度もカモメのRTFのレコードを聴くと神通力が剥げて17才の夏にタ
イムスリップする事が出来なくなるような気がして、僕はこのレコードを聴くのは年
に1〜2度だけ、それも決まって真夏に聴くようにしているのです。
 ではまた来月、今年の夏が皆様にとっての“記憶に残る夏”になる様、真夏の到来
に向かって頑張りましょう。                  
 (2002年7月10日 記)


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