「ボイスの客」はらすすのジャズよもやま話
連載第1回 ジャズ喫茶回想記
「ボイス」のホームページ開設おめでとうございます。ところが、他人事と思って喜んでいたところ、ママさんから“あんたも何か書いてちょうだい”との御依頼を頂き、不肖私も「ボイス」のホームページの末席に加えて頂く事と相成りました。
まず、第1回として懐かしのジャズ喫茶の想い出などについてつれづれなるままに書きつづってみたいと思います。
僕がジャズ喫茶に通うようになったのは、昭和47年(1972年)高校1年の3学期の事でした。当時の神戸のジャズ喫茶事情としては、「にいにい」・「ピサ」・「さりげなく」・「トリオ」の4軒が代表格であったように記憶しています。高名な作家の村上春樹氏(彼が神戸高校の出身である事は御存知でしょうか?おまけに僕にとっては西宮市立香櫨園小学校の先輩なのです。)が以前にある雑誌のインタビューで神戸時代によく行ったジャズ喫茶として「バンビ」の名前を挙げておられましたが、僕達の時代には「バンビ」はコンパの後に団体で行く喫茶店という雰囲気になっていました。また、後に神戸の代表的なジャズ喫茶となる「木馬」や元町駅南側にあったフリージャズ専門の「クルセママ」等が登場するのはこの数年後の事です。
「にいにい」は神戸レディスサウナの地下にあった薄暗い店で当時の神戸では最もアナーキーな雰囲気を漂わせていた店といえるでしょう。「ピサ」は生田神社前へ向かう手前右手の岸ビル地下1階にあり、ゆったりとしたソファーが心地よい店でした。「さりげなく」はサンセット通りとトアロードとの角の東のやはり地下1階にありました。マスターの国東さんの優しさがとても印象的でした。「トリオ」はJR(というよりも国鉄という方が当時の雰囲気ですね)元町駅の北側のビルの2階にあり、僕がジャズ喫茶に行きだした頃にちょうど阪急六甲から移ってきた直後でした。この店はその後経営者が代わり、「トンボ」という店名で1995年の震災直前まで営業していましたので、御記憶の方も多いのではないかと思います。大変狭い店でしたがライブ等にも意欲的で、僕も高校2年の頃に初めてジャズのライブを聴きにいったのがこの店で、確か宮本直介クインテットであったと記憶しています。その後、西宮北口の「デュオ」(現在の「コーナーポケット」)・「アウトプット」、梅田の「ファンキー」・「オープンドア」・
「ムルソー」、難波の「ジャズやかた」・「ファイブスポット」・「バード56」等にも遠征に出かけ、大学生になると京都の大学へ進学したため「しあんくれーる」・「YAMATOYA」・「ビッグボーイ」・「52番街」・「マンホール」等にも何度も通いましたが、やはり僕に最初にジャズを教えてくれた神戸のジャズ喫茶が今でも最も印象的であり、また最も懐かしく思い出されます。
当時のジャズ喫茶ではコルトレーンのインパルス後期盤や「サークル」等のフリー系ジャズや70年代のマイルスや「ウエザーリポート」といったエレクトリックジャズが主体でしたが、神戸のジャズ喫茶事情として他の地域のジャズ喫茶と比べて選曲が極めてコンサバティブという特徴があったように思います。特に「ピサ」・「さりげなく」の2軒でその傾向が顕著であり、前者ではビルエバンスやウエストコーストジャズなどの白人もの、後者ではレスターヤングやコールマンホーキンス等のバーブ盤等といった当時他の店ではなかなか聴かせてもらえないレコードがよくかかる傾向がありました。この事は現在の僕自身のジャズの嗜好にも大きな影響があり、神戸のジャズ喫茶があったからこそ僕もずっとジャズが好きでいてこられたといっても決して過言ではないと思います。
僕が花隈の「ロタ」に行くようになったのは1990年代になって以降の事であり、従って村田御夫妻とのお付き合いもまだ」10年にも満たないという事になります。しかし、僕が「ロタ」に通いだした頃には、現在「ボイス」を預かる息子さんの太ちゃんがまだ小学生くらいの頃で、弟さんと一緒による2階から階下の店に下りてきておられたのを記憶しています。従って、「ボイス」へ行って店を取り仕切る太ちゃんの姿を見ると、たとえ10年とは言え隔世の感があり感慨にふけってしまいます。
ではまた来月、皆様どうぞ良い年をお迎え下さい。
(2001年12月15日 記)